Ⅰ
彼が私自身を見ていないことに気づいたのは、いつ頃だろう。
彼の笑顔が、痛く感じるようになったのは、もっと前だったように思う。
*
「菜乃子」
そう呼んで私に微笑みかける彼は、きっと私なんて全く──とまではいかなくても、ほとんどは──見ていないのだろう。
優しい声。優しい笑顔。
傍からすればきっと、私と彼は仲睦まじい恋人同士に見えているはず。
それが、本物か否かの問題だ。
「どうしたの、心波」
「んーん。菜乃子の部屋ってやっぱり落ち着くなー」
「そんなこと言われても…。住み着かないでよ? 学生アパート追い出される」
「えー、菜乃子が一緒だからいいのにぃ」
そんなに甘えた声で、甘えたことを言わないで。
それを本当に言いたいのは──誰?
「はいはい、ありがとうね」
「おざなりな返事だなぁ」
「バカみたいなことを言う心波が悪いの。はい、ココア」
「んー。ありがと、菜乃子のココアが一番好き」
その私のココアは、インスタントなんだけど…と思いつつも、笑顔で返す。
一番好き、という言葉は、他意があろうとなかろうと嬉しいものだから。
「それはどうも」
「軽いなぁ」
あんたの方が軽いだろ、というツッコミは心の中に留めておく。
ソファーに座る彼の横を、我が物顔で座っている彼がぽんぽんと叩いた。
そこに座れ、と。
そう言っているのがわからないほど、彼との付き合いも短くない。
「砂糖とって」
「…心波、いつも言ってるけど」
「糖分の摂り過ぎ、でしょ? わかってるよぅ」
わかっているのならさっさとその砂糖をテーブルに戻せ。
結局、言っても言わなくても結果は同じなのだ、舌がバカになっている甘党め。
サラサラとカップに消えていく砂糖たち。
その量は目も当てられないものなのに、心波は平然と口に運ぶ。
…ホットでなければ、飽和濃度を越えて底に溜まりそうだ。
「……ありえない。やっぱりその量ありえないでしょ」
「ありえてるよー。ほら、ホットだからねぇ、飽和濃度が上がって、いつもより余計に溶けております」
「何よ、その大道芸人みたいな発言。いつもよりって、私の言うこと聞いてなかっ…ん、」
指先でクイッと顎を持ち上げられ、あっと思う間もなく唇が重なる。
少し体温の低い唇が、ふわりと重みを増して。
噛み付くように角度を変えると、薄目でこちらを確認しながら舌を挿入してきた。
舌先が触れるまではされるがままになっていたけれど、これは──、
「あまっ…んんー!」
耐えられないくらい、甘い。
どうしてこんなことをするんだろうと、力を込めるも、いつの間にか腰から背中に回った腕に阻まれた。
細っこいくせにどうしてこんな力が…!
吸い取るだけ吸い取られたというか、遊ぶだけ遊ばれたというか。
心波は気が済んだら離れて、ニコッと笑った。
「菜乃子の舌、相変わらず熱いな」
「感想言うなっ!」
「熱いココアよりも、美味しい」
「ばっ…か、じゃないの!」
まるで、私のことを好きみたいに言うくせに。
甘えてくるくせに。
──私のこと、好き?
こう訊かずに「好きだよ」という言葉が返ってきたことはない。
私のこと、好き?
──好きだよ。
だったら、キスして?
──いいよ。
もっと。もっと。もっと欲しいのに、行動ではなく言葉が欲しいのに。
心波は、別に照れ屋というわけじゃない。
わかっているから、悔しい。
好きなら、せがまずに出てきた好きだって言葉が欲しい。
…そう思うようになって、気付いてしまった。
彼の瞳に映るのは、自分を通した、自分も知らない“彼女”なのだと。
名前も顔も知らない“彼女”なのだと。
どうしてわかったかなんて、第六感と言ってしまえば根拠がないけれど。
どこか遠くを見ていて、上の空のことが多い、と思ったのがきっかけだった気もするけれど、だいぶ前だから、覚えていない。