第四十八話 波才、諸将に混乱をもたらすとのこと。
賽は投げられた。
~ガイウス・ユリウス・カエサル~
「おお、袁紹殿。連合以来お久しゅうございます」
「誰ですの、この薄汚い男は?」
「れ、麗羽様。公孫賛軍からの使者であり、軍師でもある単経さんですよ。申し訳ありません、わざわざこちらにお越しくださったのに」
「……いえいえ、実際私の格好は実用性重視ですので袁紹様がおっしゃる通り、貧相でございますからね」
「(ひ~ん、やっぱり怒ってるよっ!?)」
「っちょ、麗羽様!いくら貧相だからって使者には礼儀を尽くさないと駄目だって!」
「(文ちゃんも火に油を注ぐような事しないで~!?」)」
袁紹の居城へと参じた波才であったが、出会い頭に罵倒を飛ばされていた。
さらにはまた忘れられていたようである。いくら馬鹿とは言え、ここまでの無礼を使者に与えるなど中々できるものでは無い。
流石の波才も頭に来ているのか、若干語尾が跳ね上がっている。仮面に隠された額には、怒りの四つ角もしっかりと浮かんでいるようだ。
「そ・れ・で?いったいこの私の城に何のようですの?」
「……っは。まずは我が主君、公孫賛様が書かれた書簡をご覧くださいませ」
そう言うや波才は懐にしまい込んでいた公孫賛の書簡を手に取り、側にいた兵士へと渡した。
顔良は波才から兵士を経由して受け取ると、袁紹に確認をとってゆっくりと開いていく。
中の文字を読むにつれて顔良の顔は徐々に驚きに溢れ、しまいには驚きの声を上げてしまう。目は混乱で左右にさ迷っており、口をぱくぱくと金魚のように開いては閉じ開いては閉じと何度も繰り返す。
挙動不審すぎる顔良を見て驚いたのか、文醜が何事かと言わんばかりに顔良に詰め寄った。
「斗詩、いったいどうしたんだよ。そんな馬鹿みたいに慌ててさ」
「ぶ、文ちゃん。それどころじゃないよっ!これっ!」
そう言って顔良から受け取った書簡の中身を面倒くさそうに読み始める。
「え~『公孫賛、及びその配下一同は袁紹様の幕下に入りたく、我が軍師を使者として』……はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
「……つまり、どういう事ですの?」
「姫、公孫賛さんが私達に降伏したって事ですよっ!」
「あら、それは随分とめでたい話ですわね。まぁ大方、あの地味な自分がこの美しく華麗な私に勝てるはずが無いと理解なさったのでしょう、。おーほっほっほ!」
「さっすが姫だぜ!っよ!大陸一!」
「当然ですわ、おーほっほっほ!」
二人の馬鹿は俺達の時代が来たと言わんばかりに喜び勇んでいるが、顔良はこの降伏に違和感を覚えていた。
確かにこちらは兵力では上回っているが、向こうは将の質でこちらを完全に上回っていると感じていたからだ。
旧董卓陣営の将は、自らの主君が言うような弱気者達ではない。指揮を勤め上げ、結果落とす事ができなかった自分にはそれがよく分かっている。
文醜は確かに強いが、それでも向こうには華雄に張遼といった勇将が揃っているのだ。さらに彼らを捕獲できる指揮を行える将達がいることを考えると、向こうは質でこちらに勝っているといえよう。
「(決して、向こうが負けると決まっているわけじゃないのに……。第一、公孫賛軍に攻撃しようとしていた矢先にこの降伏。ちょっとできすぎているんじゃ……)」
軍師と思わしき男を見る。
劉備の軍にいた孔明ほどの力を感じない、孫策に付き従っていた軍師ほど気を感じる事はない。いわば凡夫、公孫賛と同じで特に見るべきところがない。
それ故か、自らの主君も特に彼を意識していなかったのかすっかり忘れていた。自分も攻める際の資料を集めているときに、彼の名前を見て思い出したほどだ。
「……単経さん、何故貴方は私達に降伏してきたんですか?」
「私達が華麗なる袁紹様に、美しく強く英雄たる袁紹様に、天下を見まわしても適う者がいない美しさを持つ袁紹様に勝てるとお思いですかっ!?」
「は、はい?」
「勝てるわけがございません!そして何よりも天下は既に袁紹様をすでに新たなる王へと選んだのです!」
「へ、へ?」
「一目見たときより袁紹様がこの大陸を救う聖女であると私は気が付きました!後光が差した麗しきお姿、他の有象無象の女共には出せない神秘の輝き。ああ、私はあの衝撃を語る術を持たない、袁紹様の美しさを例えるべき言葉を知らない!他の群雄達のなんと愚かな事か、天はすでに名家に生まれし聖女、袁紹様を選ばれたというのに!」
「おーっほっほっほ!素晴らしい、素晴らしいですわ単経!貴方はよく私の事を分かっておりますわ!」
姿も怪しく届けられた降伏の中身も怪しい。なれば問い詰めて吐かせようかと思いきや、いきなり彼は天を仰ぐようにして声高らかに言い放った。
いったいどうしたのだと思って頭の思考が止まっていたが、自らの主君が彼の声に気をよくしたことを知ると、彼の真意が掴めてくる。
この男は、袁紹を上手く乗せようとしているのでは?
「その側に控える文醜様、顔良様もまたなんと美しきことか。その采配を振る手腕たるや孫氏に劣らず、奮う武は項羽も及びますまい。まさに天下を摑めと天は言っているようなものですっ!」
「っちょ、あたいもか!?いやぁ……照れるなぁ」
「あ、ありがとうございます。その、一つ質問なんですけど……」
「ああ、そうでございますね!もちろん高貴なる袁紹様への手土産もございます!」
そうではない、そうではないのだ。
だがうちの君主様は単経が持ち込んだ宝石や金銀財宝を目の前に気をよくしてしまっている。
これは……もう駄目だ。
……いや、諦めちゃいけない!
麗羽様は確かに宝石などの類は好きだが、見飽きている節もある。
まだ、まだ、私の言葉は耳に届くはずである。
そうおもい顔良は声を上げようとするが、慌てた様子の彼女を見てにやりと笑う単経に気が付かなかった。
「ああ、袁紹様。もちろんこんなもので袁紹様は満足なされない、そうでしょう?」
「う~ん、そうですわねぇ。確かにどれも一級の物のようですが、うちにもこれぐらいはありますわ」
そうは言っているが、その一つで農民が一家で十年は食べていける。
文醜辺りは『おーおー』と金を手で遊び始めている。
「そう思いまして……おい、お連れしろ」
顔良は単経の従者が運んできたそれを見て、自らの敗北を認めた。
やられた、あれを出されてしまっては袁紹様は止められないし止まらない。
目から光を放たんばかりに輝かせる袁紹を横目に、顔良は大きなため息を吐き出したのであった。
■ ■ ■ ■ ■
『公孫賛軍、袁紹に下る』の報は、瞬く間に大陸中へと駆け巡っていった。
この一報を聞き、大陸のあらゆる人間は驚き固まった。
北方の地においてはそれほど欲がない公孫賛ならばともかく、袁紹が彼の地の覇権を欲するであろう事を誰もが予感していたからだ。
しかしこのような形で決着がつくとは誰しも思いも考えもしなかったのだ。
天下に覚えがある者ならば、公孫賛と袁紹の衝突はかならずやそう遠くない未来に実現するであろうと考えていた。
それ故に曹操は袁紹が洛陽に向かって南下することはないだろう。ならば今のうちに西涼を片付けなければと戦の用意を固めていた。
それは西涼の馬超も同様であった。騎馬の訓練を欠かすことなく、今すぐにでも曹操と相まみえる覚悟があった。
……だが、もし袁紹の幕下に公孫賛軍が入るのであれば、そう言うわけにも行かなくなる。
むしろ曹操軍にとって事態はより悪くなったと考えるべきだろう。
袁紹十万の軍に、公孫賛軍想定三万。
相まみえる時になれば、その数は十五万にまで増えていてもおかしくはない。
何より問題は、袁紹の幕下に入った将軍達だろう。
『神速』の名を冠する『張遼』。猪であるが、その武は紛れもなく本物の『華雄』。
そしていつの間にか取り込まれていた『天下無双』こと呂布。あの劉備の将達でさえ足蹴にされたという武は、最大の脅威となり得る。その右腕の『陳宮』も厄介だ。
これらの旧董卓陣営の将だけで大戦が勤まるだろう。
さらに公孫賛軍には黄巾時代からの将も揃っている。
夏侯惇と互角に打ち合った『程遠志』。暗躍に長けている『馬元義』。指揮能力と戦闘能力が高い『張曼成』。
そしてそれをまとめる忌道の策士『波才』。
あと普通の『公孫賛』。
これらが曹操軍の数倍もの兵力とともに襲いかかってくるのだ。
例え袁紹の無謀な命令であったとしても、実現させてもおかしくはない面々だ。
せめて一戦でも戦ってくれれば、資材の補給と兵糧の補充に時間をかけてくれただろう。
だがこのままでは万全以上の袁紹と相まみえる事になる。
「公孫賛軍も思い切った事をしたものです。まさか降伏を選ぶとは……」
「考え得る限りの最悪な自体なのですよ」
「ただの腑抜けなだけじゃない?」
曹操軍の頭とも言える郭嘉・程昱・荀彧。
彼女達でさえこの事態は想定していなかったのか、それぞれ顔を歪ませて苦悩している。
「馬超の動きが気になります。我々の敵は現状で袁紹だけではありません。ただでさえ足りない兵を二つに分けなければ」
「流石にこの機会を逃すわけはないからね。既に向こうも現状は理解していると思うわ。恐らくは袁紹と同時期に攻めてくるわよ」
「南の劉備さんや、東の孫策さんは未だ統治に難がありますからね~。恐らくは呼応してこちらに向かって来る事はないでしょう」
「私達の兵はかき集めても五万が限界……。ただ耐えていただけじゃ駄目ね、恐らく北に憂いがなくなった袁紹は補給を断続的に行えるだけの食料がある。じり損で押し込まれるわ」
「流石元は袁紹さんのところにいた事がある桂花ちゃんの言葉ですね~。馬超さんは流石にそこまで長期間は攻められない故に、耐えていればいいのかもしれませんが……」
「その話は止めなさい風、今の私の主君は曹操様ただ一人よ」
「袁紹は馬超のように堪え忍べば良いわけではありません。この一戦にて決めねば恐らく、いや間違いなく再び攻め込んで来ることでしょう。こちらには何度も戦えるほど現状では余裕がありません」
恐らく相当苦しい戦いになる。
そして同時に大陸の天下を分ける戦いになるだろう。漢の大地の中心を争うのだ、この戦いに勝利した方は天下に大きく手を伸ばすことになる。
「ふん、袁紹如きの兵に負けるほど我らは脆弱ではないっ!」
「脳みそまで筋肉でできているあんたは黙っていなさい」
「おぉ、桂花ちゃん遠慮と躊躇がまったくありませんね~」
「あってもこの戦馬鹿には理解できないわよ」
夏侯惇が意気揚々とアホ毛を靡かせて名乗りを上げるが、荀彧によってあっという間に落とされた。
この二人、敬遠の仲と言っていいほど仲が悪い。武官と文官という役割の違いもあるが、一番の原因は曹操の床争いであった。
どちらが曹操に愛されるかで酷い争いを繰り広げるのである。
争いと言っても、今回のように荀彧に罵倒されて何も言い返せずに、夏侯惇が撃沈するというレベルであるが。
「っな!?桂花、私がいる限り華琳様の軍は負けることはないっ!」
「あんたがいなくても代わりに秋蘭がいれば十分よ。むしろあんたは突撃ばっかでこっちが迷惑するじゃないっ!もんくがあるなら軍略の一つでも覚えなさいよっ!」
「うぅ……しゅうら~ん、桂花が私をいじめるっ!」
「ああ、姉者は可愛いなぁ」
そして妹である夏侯淵に泣きつくのが曹操軍の日常である。
ぐしぐしと涙を流してぐずる姉を、妹は頬を上気させながら頭を撫でて愛でる。
……なんというか、曹操軍は今日も百合百合しい。
しかし何だかんだ言っても、荀彧は夏侯惇の武を信頼しており、夏侯惇もまた荀彧の知を認めている。
生来の気が合わないだけで、戦時となれば二人は互いに自分の領分を遺憾なく発揮するのだ。
そして自らの臣下の議論を目にしながら、曹猛徳はただひたすらに考えていた。
「(……降伏。あの公孫賛と波才が降伏、ね)」
それは違和感であった。
今まで散々こちらの裏をかき、連合時には全ての勢力の動きを読み切って動いたあの男が、ただの一戦も交えることなく降伏を選ぶだろうか。
もし荀彧が言う通り、ただの意気地無しであったとすれば、あの黄巾族最後の戦いの時に下っている。
「秋蘭」
「っは!ほら姉者、もう大丈夫だから離れて」
「……うぅ」
未だ姉を抱きしめていた夏侯淵であったが、自らの主君の呼びかけにすぐさま返事を上げる。
優しく夏侯惇を引き離すと、向き直って軽く頭を下げた。
「貴方は、私と一緒に波才を見たはずよ。あの男をどう思ったかしら?」
「……波才、ですか?」
曹操から問われた男の名前に、場は一瞬にして静寂に変わる。
問われた夏侯淵ではなく、荀彧が代わりに悲鳴のような声を上げた。
「華琳様っ!そんなあのような下賤な男の名前を呼んではなりませんっ!男であるどころか、賊あがりの名前など口にされたら華琳様が汚れてしまいますっ!」
「貴方に聞いているわけではないのよ、桂花。私は秋蘭に聞いているの」
思わず男が大嫌いどころか存在すら否定している荀彧が声を上げるも、曹操はそれを気にすることなく退けた。
荀彧はそれでも何か叫ぼうとするが、曹操の無言の圧力に気が付いたのか、咽まででかかった言葉を抑えつける。
元よりこの場でそもそも声を上げたことが間違い。感情ばかりが先行してしまった、と彼女は自らを恥じて一歩下がった。
それを見届けた曹操から先を促すように視線を向けられた夏侯淵は、考えながらも言葉を紡いでいく。
「……得体がしれない、というのが私の本心です。あれは普通ではありません、恐らくどこか壊れているのでしょう」
「そう、ならばあの男は降伏するような人間だと思うかしら」
「……まず、降伏はないでしょう。主君である公孫賛は可能性がありますが、最後の最後まで黄巾党で牙を剥け続けた男がこの程度の困難で腹を見せるわけがありません。それに」
「それに?」
「黄巾族であった頃に戦った私達に降伏するならまだしも、袁紹如きに降伏する事はないでしょう」
寡黙で冷静な彼女にしては珍しい物言いに、思わず曹操はくすりと笑ってしまう。
「そうね。私に降伏するならまだしも、あの男が袁紹に降伏するなんてあり得ないわね」
「はい」
当然とばかりに目を瞑る夏侯淵も笑っていた。
彼女の言葉を聞いていよいよ確信を得た曹操は、静かに王座から立ち上がる。
「これは恐らく、形だけの降伏ね」
「「「……!?」」」
曹操の口から飛び出た言葉に場は騒然となる。
「嘘……偽りだというのですか?」
「しかし、そうであるのなら全ての疑問が解決する話なのですよ」
「そう……やってくれるじゃない男のくせに。この私を騙すなんて……」
各々の将が曹操の言葉に納得し、さらに思考の海へと沈んでいく中。
ただ一人、夏侯惇だけが呆気がとられたように周囲を見まわしている。心なしか、そわそわと何か言いたげな様子だ。
「……どうしたの、春蘭」
「は、はい。その……形だけの降伏って、降伏じゃないんですか?」
「……春蘭、今回ばかりは桂花に同意だわ。貴方もう少し勉強なさい」
「……ぐす、はい」
呆れ顔な曹操を見て涙目になっておどおどしている夏侯惇。
それを見てはぁはぁと息を荒らす夏侯淵。
と、どさくさに寝てしまっている程昱。
「寝るなぁっ!」
「……おお!」
■ ■ ■ ■ ■
「偽りの、降伏?」
「はい、恐らくは」
孔明の言葉に劉備はほっと一息をついた。
自分の大切な友達とも言える公孫賛。彼女が袁紹の下に降伏したと聞いた時は、心配で心配で仕方がなかった。
「公孫賛の軍はこのままでは間違いなく袁紹さんと戦っていたでしょう」
「ですが兵の数には差があります。恐らく偽りの降伏を行い、袁紹さんを曹操さんと戦わせるつもりです」
「……ずいぶんと、他人よがりな策を打ち出したものだ」
「しかし愛紗、弱者が強者に挑む以上多少の小細工がなければ勝てはしないさ」
関羽は孔明と鳳統の話にご立腹のようだが、趙雲はそういう手を使うのもまた策の一つだと笑う。
どうも関羽は頭が固いところがあるらしい。
ふくれっ面の関羽を趙雲はしばらく笑っていたが、先ほどの話に思うところがあったのか腕を組んで頭を悩ませる。
「しかし、あの白蓮殿がこのような策をつかうとは。驚きだ」
「あわわ、実は私達もそこを疑問に思っていたんですっ!」
「話に聞く公孫賛さんとは少し手が違います……おそらくこれは単経さんの策です」
「単経兄ちゃんがっ!?」
張飛は可愛らしく声を上げて驚いているが、関羽にとってその名前は何よりも不吉なものであった。
出会った時感じた正体不明の嫌悪感が背中を駆け上がる。あの違和感は決して気のせいではなかったのだ。
かつて自分たちが共に公孫賛と戦ったからよく分かる。彼女はこのような策を弄するような人間ではなかった。
「そうかぁ、波才殿が……。だが、白蓮殿も強かになったものだ」
「星、何がおかしいのだっ!もしかしたら白蓮殿は波才に操られているかもしれないのだぞっ!」
趙雲の言葉は今の関羽の精神を逆なでするようなものであった。
掴みかからん勢いで関羽は趙雲に怒鳴るが、当の本人がどこを吹く風のようにのように気にしてはいない。むしろ愉しんでいるように思えた。
「何を言っているのだ愛紗。いよいよ白蓮殿は天下を摑むために動き出したのだぞ、我らよりも一歩先ん出てな」
面白い、面白くてたまらないと趙雲はついに声を出して笑い出した。
「言っておくが白蓮殿はお主が思うように弱くはない。なぁ、桃香殿」
「……うん」
「なんだ、桃香殿まで不安になっておられるのか。ならば心配など無用だ桃香殿。白蓮殿は普通であれ弱くはないのだ」
自分が知っている公孫賛は確かによく混乱し、実にいじりがいがあった。
だがかといって弱いわけではなかった。ただ上を目指そうとしていなかっただけだ。現状に満足し、諦めていた節があった。
「そんな白蓮殿が袁紹、ゆくゆくは曹操と戦う決意を固めたのだぞ。恐らく天下を狙うおつもりだ。おしい、実に惜しいものだ。天下を狙う白蓮殿の姿を、今の私は間近で見ることができないとは……いやぁ、実に惜しい」
「おぉぉ……白蓮お姉ちゃんも天下を狙うのか?凄いのだっ!」
この報告を聞いたとき、趙雲は公孫賛がついに自らの天下を摑むつもりなのだとすぐに理解した。
公孫賛はそれほど欲があったわけでもなく、かといって無かったわけではなかった。今の自分の存在と位置に満足しており、上を目指そう、競い合おうという、誰よりも叶えたいという気概が足りなかった。
そんな彼女が天下を狙おうと牙を剥き立ち上がった。願いを新たにし、想いを心の奥に秘めて動き出した。
それは喜ぶべきものであって、否定されるべきものでは無い。
自分が認めた波才という男を配下に統べ、黄巾の残党を取り込み、今は袁紹と曹操を相手取ろうとしている。
これが劉備という配下の立場でなければ、今すぐ馳せ参じて彼女と戦うのも一興であったかもしれない。
「……うん、そうだよね。私は白蓮ちゃんに先を越されちゃったんだ」
劉備はそう悲しげに呟くと、一転して輝かしい笑顔を見せる。
それは嬉しくて嬉しくてたまらないという、まるで子供のように無邪気で汚れがない笑顔だった。
「白蓮ちゃんもきっと、みんなが笑っていられる世界を作るためにがんばっているんだよね……私達も負けてられないよっ!」
「そうなのだっ!鈴々達も負けてられないのだっ!」
「……そうだな。私は自分が恥ずかしい、私の行為は白蓮殿の想いをないがしろにしたものであったわけだ」
「なぁに、むしろこれで我々にも勢いがつくというものだ。先は超されたが、我らは決して負けたわけではないのだぞ?」
劉備の言葉に公孫賛を知るもの達が、次々と自分たちも負けられないとばかりに決意を新たにする。
しかしそんな中で孔明と鳳統の顔色だけが優れなかった。互いに目をちらちらと合わせながら、悩ましげにうなり声を上げている。
だがその真面目な姿は彼女達の容姿と相まってか、とても可愛らしく微笑ましいものであったが。
「二人ともどうしたのだ?お腹が痛いのか?」
「うぅん、違うの鈴々ちゃん。ちょっと疑問に思うことがあって」
「それってもしかして……どうやってうまく袁紹さんに取り入ったのかっていう話かな?」
「やっぱり……朱里ちゃんはどう思う?」
「ごめんね雛里ちゃん、私もよく分からないの」
そう言って互いに頭を悩ませている二人であったが、彼女達の言葉の意味が分からなかったのか他の者達はみな一様に不思議そうな顔をしている。
「どういうことなのだ?今、袁紹にうまく取り入るとか話をしていたようだが……」
「私も私も、ちょっと二人が言っていることがよく分からないかも……」
「あの……袁紹さんの幕下に入るということは何も良いところばかりではありません。自分たちだけ戦わせられるって事もあり得る事で、もしそうなったら本当に袁紹さんのところに降伏するしか無くなります」
「そうならないためには有利な条件を取り付けることが絶対必要なんです。でもそのためには袁紹さんをどれだけ欺けるかが鍵です。その鍵を公孫賛さんがどうやって用意したのか……」
そう、いったいどうやって公孫賛は袁紹を欺いたのか。
確かに彼女は馬鹿ではあるが、配下である顔良は良識があり、そうやすやすと騙されるようなやからではない。
「ふむ……案外物で釣ったのかもしれんぞ?」
誰もが鍵は何かと考え悩んでいる中、ふと趙雲が何かを思い付いたようにそう呟く。
「もの?」
「うむ、聞く話によれば袁紹は派手な物に目がないらしいからな。目の前に金で作った自らの彫像を用意されて、『これが忠誠の証です』とでも言えば信じるかもしれん」
「だがそんなあからさまな罠に……いや、かかるかもしれんな」
関羽がいやそうながらも趙雲に同意するが、孔明がそれを首を振って否定する。
「確かにもので釣ったのかもしれませんが……それだけでは何か欠ける気がします。もっと決定的な何かがあるはずなんです」
「むぅ……ならばいったいなんなのであろうなぁ」
「お菓子を沢山とか?」
「あわわ、そ、それは流石にないんじゃないかな」
雛里がそう言ってたしなめる。流石に馬鹿でもおかしでは釣られないだろう。
またまた誰もが悩み、ついに頭が痛くなってきたとき、劉備が恐る恐るといったように手を上げる。
「あ、あのさ。もしかしたらなんだけれど……」
■ ■ ■ ■ ■
「あははははは、やられたわ。まったくもう、やってくれるじゃない」
呉にも『公孫賛、袁紹に下る』という報が来た事によって、孫呉の将全員での軍議が開かれていた。
そこで偽りの降伏だと見抜いた彼らであったが、やはり劉備達と同じくどうやって袁紹を出し抜いたのかという点で思考の袋小路に迷ってしまっていた。
だが、そんな中で孫策が突然笑い出した。
孫呉の者達がみな一様に何があったのかと驚くも、孫策は笑いながらただただ笑うばかり。
「ね、姉様?」
「波才よ、波才。あの子が全部用意したのよ」
誰もが突然引き合いに出された男の名に首を傾げる。
つい最近まで彼は自分たちと共に戦っていたのだ。幽州に帰り降伏を行うまでの時間はあまりにも少ない。であるのにも関わらず、波才がいったいどうやってあの成金の袁紹が満足できる物を用意したというのか。
「ずっと疑問に思っていたのよねぇ。なんであの子がうちに来たのかって」
「その、私達と友好関係を結びたかったのでは?」
「違うわ、確かにそれはあるかもしれないけれど、そんなのは二の次よ」
呂蒙が顎に手を置いて恐る恐るそう答えを出すも、孫策は一刀のもとに切り捨てる。
「あるじゃない、つい最近まで呉にあったもので袁紹が欲しがっているものが」
「つい……最近ですか?」
「ええ、今は恐らく波才に持っていかれちゃっと思うけどね」
「なんじゃそれは」
周泰と黄蓋がそれぞれ腕を組んで唸るも答えが出ないようだ。
それもそうだろう。いってなんだがこの呉の地には袁紹が欲しがるような豪華なものは無いのだ。第一呉のお宝に関しては波才に一つたりとて渡してはいない。
何より、こちらが礼として何品か譲ろうと打診したときに波才自身が断ったのだ。
「え~と、帳簿から見ても宝物庫には損失はないようですねぇ。奪われた物は一つもないですよぉ?」
「玉璽だってしっかりと返してもらったんでしょ?だったらここにそんなお宝なんてあるわけないじゃないっ」
「そんな高価なものじゃないわよ。でも私達がずっとずっと狙ってきたものよ」
のんびりと陸遜が帳簿の記録について思い出しながら確かめるようにそう呟き、そんなものなんてないじゃないと尚香があきれかえる。
だが周瑜だけは何かひっかかっているのか、険しい表情で目を瞑っていた。
そしてようやく結論に辿り着いたのか、肺の中の空気を全て吐き出して机に拳を叩きつけた。
突然の音に誰もが驚き、周瑜を見つめる。
それに対して周瑜は憎々しげに口を開いた。
「袁術か」
「ご名答♪」
「……それで我々の下にあいつがやってきたということか。してやられたな」
やはり裏があったかと周瑜はため息をついた。
だがそれで済んだのは周瑜だけであり、呉の将たちは皆一様に目を見開いて固まった。
周瑜はそもそも波才という存在を一切信用してはいなかった。だが他の面々は波才を良き協力者と思い、好感を抱いていたものもいた。その差が顕著にこの場に現れた。
「あの子は私が逃がしたお猿さんを利用したわけ。袁紹にあいつがどれほどの効力をもたらすか、私たちはわからなかったけれど、波才は知っていたようね」
「……波才さんはそこまで考えて、私たちの懐に潜り込んだってことですかぁ?」
「あまつさえ、策殿があの猿を生かして逃すことまで計算に入れていたのかもしれんのぉ」
渋い顔で仮面を被っていた男の顔をそれぞれが思い浮かべた。
道化と思い、馬鹿にしていた結果がこの有様である。呉の才ある軍師達を全員欺き、自らのなすべきことを読んでなした。
それならまだしも、孫策が袁術を逃がすことを読めることはまずありえない。あれほどまでに怨を募らせていた呉の者たちですら予想がつかない行いを、波才は見抜いて自らの策に組み込んでいたことになる。
これでもし曹操との戦いに袁紹が敗れ、戦死したとしてもだ。
代わりに袁術を上に置き、自らが影から完全に北の大地を支配することとなるだろう。
「……私たちは、洛陽であの男とあっている。明命、その時のことを覚えているか?」
「は、はい」
「では、その時波才のやつが言った言葉をよくよく思い返してみるといい」
周瑜の言葉に周泰は必死に洛陽で波才に出会った時のことを思い出す。
だが、それにつれて周泰の顔は徐々に青くなっていった。
「み、明命?」
「え……?そんな、そんな事ってっ!?」
狼狽する周泰を見て困惑する一同。だが孫策だけは彼女の気持ちを理解できたのか、面白そうに口笛を鳴らした。
「そういえば、あの子言ってたわよね。『今度遊びに行く』って」
「……遊び、孫呉の設立を、私たちの願いをあいつは遊びと称していた。あやつがこの局面に至るまでの道筋をあのとき、すでに反董卓連合の時点で見定めていたとしたら」
そう。すでに洛陽でここまで見切っていたとすれば、それはもはや神域の如き慧眼を波才は持っている。
現実にここまですべて波才の筋書き通りになっているのであろう。
もはやこの部屋に漂う空気は不味くて吸えはしないものになっている。
自分たちが長年思いつめてきた願いをこのような形で利用されて、快く思うものなどここには一人足りとていない。
「う~ん、それは無いと思うけど。私の勘ではそこまで考えていたようには思えないけど」
「……雪蓮、あなたもしかして知っていたんじゃないかしら」
「さすがに袁術を利用するなんてことは思いつかなかったけど。まぁおおよそは」
「何故だ、何故あいつをここまで野放しにさせていたのだ?」
周瑜の言葉はもはや糾弾の域に入ってきている。
何故ここまで放っておいたのだ。もし少しでも対策をしておけば、このように踊らされる事態にはならなかっただろうに。
全員の目線が孫策に集まる中、彼女はあきれたように大きく息を吐きだして頬杖をついた。
何を言ってるんだかと言わんばかりの姿勢に、各々の顔に困惑が広がっていく。
「だって、別にあの子私たちに不都合な事は何もやってないじゃない。袁術を利用されたといっても、結局は私が逃がしたから拾ったようなもの。孫呉の設立だって、波才は邪魔になるようなことは何もしてはいない。それに呂布なんていう極上の手札を貸してくれたじゃない」
「しかし……」
「考えすぎよ、冥琳。策士、策に溺れる。あの子は前も言ったけれど、臆病だからそこまで踏み込みはしない。遊びに行くって言葉もその時のからかい交じりの戯言よ。一つ疑いだしたらきりがないのはわかるけれど、かといって譜面通りの言葉をそのまま受け取るっていうのも不味いわ」
「………」
「何か勝手なことをやっていれば、やろうとしていれば私が首を即刻切り捨てていたわよ。あの子は私たちが思うことしかやらなかった、いえ、やれなかったのよ。ならそれでいいじゃない。どうせこんな時代なんだから、話にある程度の裏があって当然よ。死ぬはずだった孫呉の勇者千人と、袁術の阿呆一人。どちらが重いかは明白でしょうに。逆に袁術一人で孫呉の勇者千人の命を手に入れたと思いなさい」
あっけらかんとそう言い放った孫策。もはや清々しいまでにあっさりと言い切った。
「それにあの時の私たちは袁術の下にいたからこそ、予想されるような動きしかできなかった。今は違う、私たちは孫呉という国を作り上げている。好きなようにはさせない。何より、やっと冥琳が思う存分策を動かせるじゃない♪それなのに波才にまた隅々まで読まれるとでも?」
「……卑怯だぞ雪蓮」
周瑜の顔から険が抜け落ちていた。
暗に孫策は惑わされるなと言っているのだとわかる。あなたの力は波才に劣るものではない、むしろその上をいくのだと諭されている。
自らの主君のそのような評価に喜びと安心を見せぬものなどいない。そして何より、孫呉の将たちがその言葉に納得の色を見せ始めている。
このような場で否定などできるものか。
その流れを一瞬で読み切る王。その王のもとに軍師として仕えているのだ。
波才如きに飲まれていては話にもならない。
「あら、やっと顔のしわがとれたわね」
「主君からの励ましがあったものでな。次は遅れをとらんさ」
「うん、期待しているわよ♪」
軍の中核たる二人の新たなる誓いは、他の将兵達にも目に熱い炎を灯らせていた。
その中でも孫権の目の輝きは一際目を見張るものがあった。
先ほどまでは裏切られたかのように落ち込みを隠せていなかったが、孫策の言葉に思うところがあったのであろう。
今やその目には一点の曇りもなく、ただひたすらに何かに想いを馳せているようだ。
孫策はそんな姿を愛おしげに見つめながら、やはり妹は這い上がって来られたと人知れずに喜んだ。
孫呉に憂いはない、もはや自分が道半ばに倒れようとも、この子がいれば孫呉は歩み続けられると。
「さぁ、私達は私達の戦いを始めましょうか。国ができたとはいえ、未だ各地の豪族は私達に抵抗している。とっとと平らげちゃわないとね」
肉食獣の如き笑みを浮かべる孫策は、己の真っ赤な舌で乾燥し始めた自分の唇をなぞる。
待っていなさい、波才。私達もすぐに貴方達の舞台に返り咲いてあげるから。
今回は全体的にノッペリ回です。
説明が多いからかな?
ちょっと更新に間が空くかもしれません。
レポートがこれから山ほど出されるので……。夏休みも実家に帰るとなると、小説を書く暇がないかもしれない……。
しかもタイの寺院ってもちろん山奥だからそもそも電気通ってないですからね。
夏休みは投稿できないでしょう。
夏休み前に忙しいのですが、一回分投下できればなぁって思います。
……とかいいつつ息抜きで何か新作投下しているという(おい
ぶっちゃけ黄巾の方でまたスランプが起こったので。いや~曹操軍の動かし方がマジでめんどいのです。
しかし漢女みたいなシリアス一直線も書きたくないので、シリアス皆無の味の素が書きやすい作風に変えました。
結果、主人公である北郷くんがナンパをする話になりました。
いや、書きやすいけれどマジでどうしてこうなったしorz