第1章 聖なる母と、愛しき子ら
降りしきる雨が止む気配はない。
空は重い灰色の雲に覆われ、大粒の雨が、古びた屋根や庭の錆びついたたらいに激しく打ちつけている。
ザーザー……ッ。ボタボタ、ボタボタ……
母さんヤギは、入口のすぐそばに立っている。
ギギギと重い音を立てて扉を少しだけ開けると、湿気を帯びた夜の冷気が、温かな部屋の中へ一気に流れ込んでくる。
ろうそくの小さな炎が、風にあおられて消えそうに揺れる。
「おかあさん、おかあさん、やだぁ……行かないでぇ!」
末っ子のリュミが、母さんのスカートの裾をぎゅっと握りしめる。「どうして行っちゃうの……?やだよ……」
母さんはかがみ込み、幼い我が子を抱きしめる。
「お母さん、お仕事に行ってくるね。お母さんは行かなきゃいけないの。あなたたちが、お父さんみたいに大きくて強い子に育つように、お母さん頑張るからね。お父さんも、きっと空から見守ってくれているわ。知らない人が来ても、絶対にドアを開けちゃダメよ。お兄ちゃんの言うことをちゃんと聞くのよ。みんないい子で待っていてね」
次男のトリムが唇をかみ締めながら声をあげる。
「お母さん、行かないで。僕たち、お腹が空いても我慢するから。だから、お仕事に行かなくてもいいよ。僕たち、もう大きいもん」
「我慢できるから……!」
長男のリムが前に出ると、すっと背筋を伸ばす。
「ふたりとも、もうそこまでにしよう。まったく…。そんなに泣いたら、お母さんが安心して出かけられないだろ。ちゃんと帰ってくるから、大丈夫だ」
母さんはリムの方を振り返る。
「リム……下の子たちのこと、お願いね」
「うん。任せて、母さん」
「……あなたなら、安心して任せられるわ」
母さんはもう一度、幼い二人へ視線を向ける。
「かわいい、私の大切な子たち……誰が来ても、絶対に扉を開けちゃダメよ?ね?お母さんの声を忘れないように、優しい歌を歌ってあげるわね。いつでも、お母さんだって分かるように……」
「かわいい子たち、お母さんが帰ってきたわよ。甘いお乳を持ってきたのよ。誰が来ても、扉を開けちゃダメよ。森には悪いヤツが彷徨っていて、牙を研ぎながら、みんなを食べようと狙っているの。
でもね、お母さんは聖なるものなのよ。だから、何も恐れることはないの。闇に飲まれたりなんてしないわ。あなたたちも同じ。生まれながらに、聖なる命なのよ。闇に飲まれることなんてないわ。どんな災いだって、いつかきっと、遠ざかっていくからね」
歌声は雨の音に溶けるように、静かに消えていく。
「お願いね……この歌を、忘れないでね……」
「うん、大丈夫。絶対に忘れないよ、母さん」
リムは真剣な顔でうなずく。母さんヤギは、頬を伝う一筋のしずくを指でぬぐう。軒先から吹き込んだ雨粒なのか、それとも我が子と離れる寂しさに耐えかねた涙なのか。
母さんは静かに扉を閉める。
扉の隙間から、最後の瞬間まで子どもたちを見つめる。
まるで、これが人生で最後の別れであるかのように。
そして、閉じられた板戸のざらついた表面を愛おしそうになぞると、カチャリと重い錠が下りる。
家の中が、しんと静まり返る。
「よし……」
リムは小さく息を吐き、押し寄せる寂しさを振り払うように首を振る。
「ほら、パンでも食べよう。温かいミルクもあるから」
弟たちはトボトボとキッチンへ歩いていく。
部屋の中には、干し草の香りと薪の煙の匂いが満ちている。
リムは火かき棒で赤々と燃える薪の調子を整えると、ミルクの入った重い鉄鍋を竈にのせた。
パチパチと薪の弾ける音が、静かな部屋に響く。
リュミが長椅子に腰掛け、長兄の袖をちょんちょんと引っ張る。
「お兄ちゃん……『悪いヤツ』ってなぁに?お母さんが歌ってたやつ……」
トリムは膝を抱え込み、ぽつりぽつりとつぶやく。
「僕、お母さんのことが心配だよ……」
「もし本当に森に化け物がいたら、どうするの……?僕、聞いたんだよ。隣の村で、住人がいなくなってるって……。ほら、一ヶ月前にいなくなった修道女のヤミヤさん……覚えてるでしょ?」
「そんなの、ただの噂だろ」
リムは一瞬だけ手を止めるが、すぐに何でもないように首を振る。
「誰からそんな話、聞いたんだ?」
「学校のみんなが言ってたんだもん……」
「でも、本当に化け物だったら……?お母さん、ひとりで森を通るんだよ……?危ないかもしれないじゃない……」
「みんなの言うことを、いちいち真に受けるなよ。母さんの言うこと聞いて、もう泣くな。あの歌だって、変なやつに扉を開けないように言ってただけだ。森には肉食の危ない獣だっているんだからな。……化け物なんて、本当はいない。分かったか?」
「ほんと……?」
リュミは無垢で大きな瞳で見つめ返す。
「本当だって。怖がるから、余計に怖く見えるだけだ」
リムはそう言って、リュミの頭をぽんと軽く叩く。
「ほら、リュミ。おとぎ話の勇者『勇希』、覚えてるだろ?あいつだって、怖くても逃げなかったんだ」
「勇希は、自分が信じたものを守るために、怖くても立ち向かったんだ。……リュミだって、勇希みたいになりたいだろ?」
「だったら、そんな顔するな。大丈夫だ。怖いものなんて、俺たちが思ってるほど大したもんじゃないさ」
「うん!」
リュミはごしごし涙をぬぐうと、目を輝かせる。
「ぼくも!英雄になる!」
小さな末っ子は、わざとらしくキリッとした表情を作り、胸を大きく張ると、見えない化け物を剣で切り倒すふりをしながら、食卓の周りを嬉しそうにグルグルと走り回りはじめる。
「ほらな。怖がることなんてないだろ?」
「う、うん……分かったよ、お兄ちゃん」
トリムも少し落ち着きを取り戻し、静かに答える。鍋の中のミルクがようやく沸騰し、白い泡を立て始める。リムは鉄鍋の取っ手に火かき棒をひっかけて手前へ引き寄せて熱気から遠ざけると、みんなが火傷しないよう、慎重に温かいミルクを素焼きのカップへ注いでいく。
ドンドンドンドン
突如として、激しく焦りを含んだノックが玄関の扉を揺らす。
三人ともピタリと動きを止める。リュミはカップを掲げたまま固まり、トリムはカップを強く握りしめ、リムは鉄鍋を持ったまま動けない。聞こえるのは、窓の外で吹き荒れる土砂降りの雨の音だけだ。
「だ、誰……?」
トリムは怯えた目で兄を見つめながら、声をひそめて尋ねる。
「分からない」
リムは短く答えると、弟たちを振り返る。
「でも、俺が見てくる。お前たちはここにいろ」そう言って、リムは足元の床をミシミシと鳴らしながら、ゆっくりと玄関の前まで歩いていく。
「……誰だ?」
「お願い……扉を……開けて……!すごく……苦しいの……!」
「私よ……覚えてる?夜瑠よ……!ほら……お祭りのときに、おばあちゃんと一緒に……お菓子を配っていた……!」
「あっ!覚えてる、覚えてるよ!」
トリムはほっとしたように息をつき、思わず扉へ近づこうとする。
「待て、トリム」
リムがすぐに弟を止める。
「窓のそばに立って、姿を見せてくれ!」
「ごめんなさい……無理なの」
扉の向こうから、必死で痛々しい声が響く。
「もう……全然、力が入らなくて……。ここまで来るのが、やっとだったの……!」
「何があったんだ!話してくれ!」
リムはぎゅっと拳を握りしめ、扉の向こうへ問いかける。
「私のおばあちゃんが……化け物に襲われたの……。おばあちゃん……殺されちゃったの……」
子ヤギたちは、思わず顔を見合わせる。
キッチンの中に、ぞくりとするような恐怖が広がっていく。
あの噂は……本当なのだろうか。
リムは息をのみ、なんとか平静を保とうとする。
「きみ……本当に、それを見たのか?」
「ごめんなさい……もう……答えられない……」
扉の向こうから聞こえる声は、どんどん弱くなっていく。
「すごく……苦しいの……」
「どうしよう……お兄ちゃん……?」
トリムが、不安そうな目でリムを見上げる。
その目には、助けてあげたい気持ちと、怖いという気持ちが入り混じっている。
「入れてあげようよ……!」
末っ子のリュミが、ぴくっと耳を動かして、扉のほうへ身を寄せる。
「かわいそうだよ……泣いてるもん……!」
「ダメだ」
リムは首を横に振る。
「罠かもしれない」
「でも……」
トリムが小さく声を漏らす。
リムは二人を振り返る。
「夜中に、知らない者のために扉を開けるのは危ない。母さんにも、そう言われただろ」
「…………」
「絶対に、開けちゃダメだ」
彼はそこで言葉を詰まらせる。
扉の向こうで、ドサッ……と重く鈍い音が響く。
まるで誰かが板戸にすがりつきながら、そのまま地面に崩れ落ちたかのような音だ。
静寂が訪れる。リムは唇をかみ締める。
「……困ってる女の子を、このまま見捨てるなんて……俺にはできない」
リムは思い切ってかんぬきを引き抜く。
ガチャリと重い音を立て、扉を勢いよく引き開ける。その瞬間、ぐったりとした身体がリムの胸に倒れ込んでくる。
「わっ……!」
思わず受け止める。
それは雨に濡れた赤いマントを着た、ケガをした黒テンの少女だ。
濡れた桃色の髪が頬にかかり、愛らしい顔立ちをしている。
冷え切った体は華奢だ。
雨と血の匂いが強く漂う。細い首元には、何かの大きな爪でつけられた深い傷跡がある。
少女はかすかに瞼を開ける。
「ありがとう……ございます……」
少女はリムの胸元に顔をうずめながら、途切れ途切れに呟く。
「……!」
リムは彼女を抱きかかえたまま、固まってしまう。
突然のことに、どうしていいのか分からない。
自分の肌に触れる彼女の温かな吐息を感じた瞬間、リムの頬が思わずカッと熱くなる。
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