閑話-触れた温もり
この猫のような神秘の力を顕現された方は、神の遣いなのだろうか。
馬車の向かいに座る妹の腕の中。
大人しく抱かれているその存在を見つめながら、私は先ほどまでの出来事を反芻していた。
私たちはある目的のため、「縫目の森」へ足を踏み入れた。
この森は魔力に満ち、希少な資源を生み出す。
同時に、強力な魔物が闊歩する危険地帯でもある。
我が家——辺境伯家は、この森の管理を任され、王国の盾としてその手前に領地を構えている。
私はその辺境伯家の嫡男だ。
だが父上は言った。
今の剣では森の奥へ入るには未熟だと。
許されたのは浅瀬のみ。
それでも私は、父上の不在を見計らい、奥地へと進んだ。
強力な風魔法使いの妹。
第一騎士団団長。
そして精鋭四名。
万全の布陣だったはずだ。
——あれさえ、いなければ。
本来この森に出現しないはずの、火の魔物。
炎は瞬く間に広がり、退路を断った。
妹の風魔法が炎を押し返すが、鎮めきれない。
焦燥が胸を焼く。
そのときだった。
ぽつり、と。
頬に落ちた水滴。
見上げると、空はいつの間にか曇り、雨が降り始めていた。
森を舐める炎が、雨に打たれ鎮まっていく。
好機を逃さず、騎士団が斬り込む。
妹が支援し、私は彼女を守りながら前に出る。
形勢は、確かにこちらに傾いていた。
——あと一撃。
その瞬間、空が晴れた。
火の魔物は最後の力を振り絞り、団長へ至近距離から炎を放った。
避けられたはずだ。
だが団長は退かなかった。
後方にいる私たちを守るため、炎を正面から受け止め、そのまま剣を振り抜いた。
魔物は黒い塵となって崩れ落ちる。
勝利。
そう思った直後、団長が崩れた。
全身に及ぶ火傷と裂傷。
致命傷だった。
高位ポーションはない。
光属性適性者もいない。
——私の判断が、皆をここへ連れてきた。
絶望が胸を締めつけた、そのとき。
草を踏む音がした。
剣を構える。
そこにいたのは、一匹の猫のような存在だった。
黒い肢体。
金の瞳。
この世のものとは思えぬ静かな威厳。
それは、怯えることなく尾を揺らした。
ふわりと、暖かく澄んだ魔力が広がる。
私たちの身を包み、戦闘で荒れた土壌を整え、付着した穢れを浄化していく。
——先ほどの雨も、この方なのか。
そう問うと、静かに視線が返る。
その目には、確かな理性があった。
私は剣を下ろさせ、頭を垂れた。
「……彼を、我が騎士団長を、助けていただけないだろうか……?」
猫は一瞬、迷うように動きを止めた。
それでも歩み寄り、団長に前足を置き、目を閉じる。
淡い光が灯る。
だが、足りない。
癒しは進むが、追いつかない。
このままでは——。
私は悟った。
浅慮だった。
父上の言葉を軽んじた結果だ。
——責は、私にある。
もし神がいるのなら。
私の身と引き換えでいい。
どうか、団長を。
祈るしかなかった。
どれほどの時間が過ぎただろう。
猫が顔を上げる。
次の瞬間、さらに精緻な魔力操作が行われた。
癒しを施しながら、別の魔法を重ねている。
常識外れの制御。
光が増す。
傷が閉じる速度が跳ね上がる。
それは単なる活性化ではなかった。
裂けた肉も、焼け焦げた皮膚も、細部まで縫い直すような癒し。
私たちの知る治癒とは、まるで別物だった。
やがて団長の呼吸が安定する。
他の負傷者にも同じ奇跡が施される。
——何という慈悲。
終えると、猫は去ろうとした。
引き留めようとした瞬間、妹が抱き上げる。
暴れない。
ただ、静かにこちらを見た。
私たちは必死に感謝を伝え、領地へ来てほしいと願った。
そして今、森を離れ、馬車は領地へ向かっている。
恩に報いたい。
それは本心だ。
——だが。
今回森へ入った“本当の理由”。
その問題を、この方なら解決できるのではないか。
そう思ってしまった。
本来の目的は——母上のためだった。
希少な素材。
高位ポーションの調合に必要だと、
とある情報屋がもたらした不確かな噂。
父上に知らせれば止められる。
だから私は独断で動いた。
結果は、この有様だ。
団長を危険に晒し、
森を荒らし、
目的の素材も得られなかった。
——私は、何も成せていない。
そう思ったはずだった。
だが。
視線の先、妹の腕に抱かれたその存在。
穏やかな呼吸。
静かな眼差し。
あの奇跡。
あれが、もし。
もし本当に神の遣いのような御方ならば。
母上の病も——。
その考えが脳裏をよぎった瞬間、
胸がざわついた。
私は今、
この方を「恩人」としてではなく、
「希望」として見ていないか。
利用しようとしてはいないか。
……情けない。
それでも。
それでも、願ってしまう。
どうか、もう一度だけ。
奇跡を。
私は窓の外へ視線を移した。
空は、青とも夕ともつかぬ色に染まっている。
まだ、答えは出ていない。
けれど——
もしこの方が望まぬのであれば、
無理強いはしない。
それだけは、誓おう。




