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五十八話 蟠龍の蠱毒(ばんりゅうのこどく)

◇◇◇


 ある日の午後、屋敷の一室で赫燕(かくえん)は、いつものように巨大な地図を眺めていた。その背中は、岩のように大きく、誰も寄せ付けない空気を纏っている。その少し離れた場所で、玉蓮は慣れた手つきで、戦で深く傷んだ彼の甲冑の革紐を修繕していた。擦り切れ、ほつれた革紐は、激戦を物語る。


 やがて、玉蓮は修繕を終えると、音もなく静かに立ち上がり、部屋の隅に置かれた茶器に手を伸ばし、丁寧に茶を淹れる。湯気の立つ茶葉の香りが、伽羅(きゃら)の香が漂う部屋に微かに溶け込んだ。


 地図に没頭する彼の視界を遮らぬよう、完璧な位置に、そっと音もなく杯を置く。赫燕は地図から目を離さない。感謝の言葉も、労いの言葉もない。しかし、その大きな手が、まるでそこに杯があることを初めから知っていたかのように、ごく自然に杯へと伸び、茶を一口すすった。


 屋敷の中は常に、奥深く甘やかな伽羅(きゃら)の香が満ちている。出会った頃と変わらぬその香り。



 ふと、玉蓮は視線を香炉(こうろ)へと向けた。金の香炉の内側、そこに紫水晶と同じ、見覚えのある模様を見つけたからだ。精緻(せいち)な細工で施されたその模様は、(ぎょく)を掴んだ四本角の龍が天へと昇る姿を(かたど)っていた。


「これは……気づきませんでした。ここにも紫水晶と同じ龍がいたのですね」


 静寂な部屋に響いた玉蓮の声に、赫燕は「ああ」と声だけで答えた。


「そうだな。知っているのは、朱飛ぐらいだ」


 玉蓮が大きく息を吸い込めば、上等な伽羅が肺を満たすように身体に入っていく。


「……なぜ、いつもこの香を?」


 空間に満ちる、甘く、どこか心を凍らせるような伽羅の香りと、細く揺蕩(たゆた)うその煙。赫燕は、玉蓮の問いにしばし沈黙していたが、やがて(うつ)ろな瞳を香炉に向けた。


「……(いにしえ)より伝わる香毒(こうどく)蟠龍(ばんりゅう)蠱毒(こどく)、というものがある」


「……香毒(こうどく)?」


「伽羅に、ほんの僅か、別の草を混ぜる。そして、龍の逆鱗(げきりん)と呼ばれる鉱物の釉薬(うわぐすり)を施した香炉で焚けば、極上の伽羅の香りだ。だが、実際は致死性の毒煙(どくけむり)。それを吸った者は、ゆっくりと、眠るように死んでいく」


 彼の声は、あくまで平坦に響く。まるで日常の出来事を語るかのような調子が、(おぞ)ましさを物語るようだ。


 赫燕はゆっくりと立ち上がり、香炉に近づくと、その無骨な指先で、そっと立ち上る煙を手繰たぐり寄せ、そして、その香りを玉蓮の鼻先に近づけた。


「この香炉は、釉薬(うわぐすり)が塗られていない。無毒の印として、玉の昇り龍が描かれている。反対に、蟠龍(ばんりゅう)蠱毒(こどく)として使う香炉は、龍が玉を護るように抱え込み、とぐろを巻いている」


 赫燕の指が、空中にその醜悪な形状を描くように動く。


「つまり、蟠龍(ばんりゅう)だ。天に昇らぬ龍は、地で毒を吐く」


 甘く、しかし、今はぞっとするほど恐ろしい伽羅の香りが、玉蓮の鼻腔(びこう)をくすぐる。


「よく覚えておけ、伽羅(きゃら)の香りを。もし、この中にほんの僅かでも、舌の奥を刺すような苦味を感じたら……それは、毒だ」


「……嗅ぎ分けるために、いつもこの香を?」


「……極上の伽羅(きゃら)は手に入れるのが難しい。が、その分、貢物(みつぎもの)にもされやすい。蟠龍(ばんりゅう)蠱毒(こどく)は嗅ぎ分けるのが最も困難だ。まあ、作れる者など、そうはいないがな」


 赫燕は、それきり再び口を閉ざして、地図の前に戻った。

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