五十八話 蟠龍の蠱毒(ばんりゅうのこどく)
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ある日の午後、屋敷の一室で赫燕は、いつものように巨大な地図を眺めていた。その背中は、岩のように大きく、誰も寄せ付けない空気を纏っている。その少し離れた場所で、玉蓮は慣れた手つきで、戦で深く傷んだ彼の甲冑の革紐を修繕していた。擦り切れ、ほつれた革紐は、激戦を物語る。
やがて、玉蓮は修繕を終えると、音もなく静かに立ち上がり、部屋の隅に置かれた茶器に手を伸ばし、丁寧に茶を淹れる。湯気の立つ茶葉の香りが、伽羅の香が漂う部屋に微かに溶け込んだ。
地図に没頭する彼の視界を遮らぬよう、完璧な位置に、そっと音もなく杯を置く。赫燕は地図から目を離さない。感謝の言葉も、労いの言葉もない。しかし、その大きな手が、まるでそこに杯があることを初めから知っていたかのように、ごく自然に杯へと伸び、茶を一口すすった。
屋敷の中は常に、奥深く甘やかな伽羅の香が満ちている。出会った頃と変わらぬその香り。
ふと、玉蓮は視線を香炉へと向けた。金の香炉の内側、そこに紫水晶と同じ、見覚えのある模様を見つけたからだ。精緻な細工で施されたその模様は、玉を掴んだ四本角の龍が天へと昇る姿を象っていた。
「これは……気づきませんでした。ここにも紫水晶と同じ龍がいたのですね」
静寂な部屋に響いた玉蓮の声に、赫燕は「ああ」と声だけで答えた。
「そうだな。知っているのは、朱飛ぐらいだ」
玉蓮が大きく息を吸い込めば、上等な伽羅が肺を満たすように身体に入っていく。
「……なぜ、いつもこの香を?」
空間に満ちる、甘く、どこか心を凍らせるような伽羅の香りと、細く揺蕩うその煙。赫燕は、玉蓮の問いにしばし沈黙していたが、やがて虚ろな瞳を香炉に向けた。
「……古より伝わる香毒。蟠龍の蠱毒、というものがある」
「……香毒?」
「伽羅に、ほんの僅か、別の草を混ぜる。そして、龍の逆鱗と呼ばれる鉱物の釉薬を施した香炉で焚けば、極上の伽羅の香りだ。だが、実際は致死性の毒煙。それを吸った者は、ゆっくりと、眠るように死んでいく」
彼の声は、あくまで平坦に響く。まるで日常の出来事を語るかのような調子が、悍ましさを物語るようだ。
赫燕はゆっくりと立ち上がり、香炉に近づくと、その無骨な指先で、そっと立ち上る煙を手繰り寄せ、そして、その香りを玉蓮の鼻先に近づけた。
「この香炉は、釉薬が塗られていない。無毒の印として、玉の昇り龍が描かれている。反対に、蟠龍の蠱毒として使う香炉は、龍が玉を護るように抱え込み、とぐろを巻いている」
赫燕の指が、空中にその醜悪な形状を描くように動く。
「つまり、蟠龍だ。天に昇らぬ龍は、地で毒を吐く」
甘く、しかし、今はぞっとするほど恐ろしい伽羅の香りが、玉蓮の鼻腔をくすぐる。
「よく覚えておけ、伽羅の香りを。もし、この中にほんの僅かでも、舌の奥を刺すような苦味を感じたら……それは、毒だ」
「……嗅ぎ分けるために、いつもこの香を?」
「……極上の伽羅は手に入れるのが難しい。が、その分、貢物にもされやすい。蟠龍の蠱毒は嗅ぎ分けるのが最も困難だ。まあ、作れる者など、そうはいないがな」
赫燕は、それきり再び口を閉ざして、地図の前に戻った。




