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五十五話 魂の片割れ

◇◇◇ 朱飛(しゅひ) ◇◇◇


 鬼気迫るような、それでいて、どこか陶然(とうぜん)とした姿だった。自らの天幕へ戻る途中の玉蓮を、朱飛は見つめていた。


 あれは、死線を潜り抜けた者だけが纏う、特殊な空気。全ての恐怖と興奮が過ぎ去った後に残る、燃え尽きたかのような静けさと、それでいて、世界の全てを見通すかのような、奇妙な全能感。


 今の彼女には、常人の感情の揺れなど、些細なことにしか見えていないのだろう。その、あまりに危うい美しさから、朱飛は目を逸らすことができなかった。そして、気づけば、彼女の名を呼んでいた。


「……玉蓮」


 彼女がはっと顔を上げる。朱飛はゆっくりと玉蓮の元へと歩き、その前で止まる。


「お頭は?」


「治療が終わって……意識もあります」


「そうか。お前は大丈夫か」


 そう言いながら、玉蓮の頬にそっと指の背を滑らせた。そこには、乾いた涙の跡がはっきりと残っている。


「守り鳥が、心の臓を貫こうとした矢から守ってくれたのです。砕けてしまいましたが」


 玉蓮はそう答えると、片手で懐から大切にしまっていた布を開いた。その中には、無残にも砕けた木製の鳥の欠片が収められていた。朱飛は、その小さな破片一つ一つをじっと見つめた。


「直してやる」


 朱飛の言葉に、玉蓮は目を見開いた。


「直せるのですか……でも、もうボロボロで」


「今度は、さすがに一晩じゃできないがな」


 冗談めかした言葉に、玉蓮の表情にようやく、柔らかな光が灯った。彼女は、砕けた鳥を、そっと朱飛の手に渡す。


「勝手をして、申し訳ありません」


「……ああ」


「兵を、仲間を……死なせてしまいました」


「そうだな」


 玉蓮の瞳が揺れ、唇を強く噛み締める。


「あいつらも覚悟はあったはずだ。だが、忘れろとは言わない」


「……はい」


「背負って、進むんだ」


 玉蓮の顔がゆっくりと上がり、揺れていたはずの瞳が真っ直ぐ朱飛を捉えた。それを見つめ返せば、彼女は強い眼差しのまま頷く。



 風が頬を撫でていく。


 朱飛は、玉蓮の襟元から覗いている革紐に視線を移した。


「それは……」


 思わず、声が漏れた。


(まさか——)


 玉蓮が、襟元からそれを取り出して、紫水晶を見せる。その瞬間、朱飛の世界から、音が消えた。



——炎。血の匂い。幼い主君の、獣のような瞳。その泥だらけの手に握りしめられていた、二つの石。決して手放そうとしなかった、魂の片割れ。それが、なぜ——。


 思考が、そこで途切れた。感情が渦巻くことさえ、許されない。絶対的な事実だけが、朱飛の胸を、音もなく貫いていた。言葉にならないものが、喉を(ふさ)ぐ。


「……大切に、しろ」


 掠れた声で、どうにかそう絞り出すのがやっとだった。玉蓮が紫水晶を握りしめるが、そこから視線を一瞬たりとも逸らすことができない。


「……朱飛?」


 玉蓮に呼ばれ、ようやく視線を上げる。ゆっくりと焦点が定まり、目の前に玉蓮を映し出した。朱飛は呼吸を整えようと努めたが、体の奥で(くすぶ)る感情が喉を締め付けた。


「玉蓮——」


 なぜ、名を呼んだのか。自分でも分からない。気づけば、そのあまりにも儚く、危うい体を腕の中に閉じ込めていた。



 伽羅(きゃら)の甘い香りが、ふわりと鼻腔をくすぐる。腕の中の、小さな体の温もり。それが、これまで武骨な生き方しか知らなかった自分の胸の奥に、じんわりと染み込んでいく。まるで、凍てついた大地に、初めて陽の光が差したかのように温かい。


 彼女が安堵したように息を吐くのを感じる。その、あまりにも無防備な信頼が、朱飛の胸を内側から食い破ろうとする。肩に触れた玉蓮の黒髪が、はらはらと細い絹糸のように落ちていく。柔らかな感触が微かな熱を帯びて、朱飛の皮膚をじんわりと温めた。


 指先が、まるでそれ自身の意志を持つかのように、彼女の髪をそっと()く。一筋一筋、絡まることなく滑らかに指をすり抜ける髪は、この腕の中にいる彼女の存在をより鮮明に意識させる。


 彼女が小さく息を呑む気配がして、そのまま抱きしめる力を強めると、玉蓮がかすかに声を漏らした。


「ん……」


 熱を帯びた白い肌が触れる。さらに力を込めれば、この華奢な身体は容易(たや)く壊れてしまうだろう。


 もっと強く、刻みつけるように、この腕の中に閉じ込めてしまいたい。その、獣のような衝動が、背筋を駆け上がった。朱飛は、奥歯を強く噛み締める。己の内に宿る獣を、理性の鎖で必死に押さえつける。行き場のない熱が、拳の中で震えた。


「……悪い」


 唇から、掠れた声が漏れる。その声は、自分自身の感情の揺らぎを隠すように、低く、そして少しだけ震えている。


 彼女が小さく首を振るのが分かる。そして、ゆっくりと持ち上げられた顔には、あまりにも澄んだ瞳があった。吸い込まれるようなその瞳に見つめられると、どうしようもなく心が乱される。だが、いつものように、その頭に手を置いた。それしか、できなかった。


 彼女が、安堵したように、そっと瞳を閉じる。


「……帰るか」


 それだけを静かに言うと、振り切るように彼女から身を離し、天幕に向けて歩き出した。玉蓮の足音が少し遅れて、ついてくるのを感じながら。

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