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四十六話 紫水晶の記憶

◇◇◇ 赫燕(かくえん) ◇◇◇


 戦闘開始から三日後。月は厚い雲に隠され、星々もその輝きを抑えていた。遠くで狼の遠吠えが聞こえ、戦場の熱がこの夜のひとときだけ遠ざかる。時折、風が運んでくるのは、兵士たちの(うめ)き声。


 望楼(ぼうろう)の最上、卓に広げられた地図を前に、赫燕(かくえん)は一人、手にした杯の縁を指で(もてあそ)んでいた。音もなく、背後に人の気配が現れる。振り返るまでもない。なぜなら、この気配は、ずっと昔から知っているからだ。


「なんだ」


「……この戦、どこか見覚えがありますね」


 闇の中から届いた朱飛(しゅひ)の声が、耳に静かに落ち、赫燕の指がぴたりと止まる。過去の記憶が、薄い膜のように己を覆い始める。


「またあいつらの相手か」


 望楼(ぼうろう)の端で揺らめく炎を見ながら、呟く。


「俺は、今でも……間違っていたとは思いません」


 何度となく聞いてきた言葉が、空気を震わせる。赫燕は、初めて地図から顔を上げた。卓上の灯火が、パチリと音を立てて()ぜた。その音と焦げた匂いが、脳裏の扉をこじ開ける。


 視線の先で、朱飛の頬が、わずかに引き()る。その表情を見た瞬間、灯りがぐらりと揺らめいた。朱飛の輪郭が滲み、その向こうに燃え盛る王宮の炎が見える。


 そこに立っているのは、朱飛ではない。業火(ごうか)の中に立つ、父の、あの心優しい、しかし、あまりにも無力だった面影。


「父が民を信じ、隣国を信じ、助けた結果、どうなった」


「それは——」


飢饉(ききん)に見舞われた俺たちは、ただ奪われた。前年、我らが助けたはずの隣国によってな」


 赫燕は、そこまで言うと、一度言葉を切り、杯の酒を無感情に(あお)った。


「あいつらは領土と民と、紫水晶を奪いに来た。そして……あの女が……父を裏切り、国そのものを売り渡した」


 無意識だった。だが、己の指は首元の紫水晶に触れている。氷のように冷たいその感触。それはまるで、無念のうちに死んでいった父の、国の凍りついた涙の結晶のようだ。


「弱い奴も、お人好しすぎる奴も、いいように利用されて、すべてを奪われる。信じた民にすら、手のひらを返される。それがこの世の(ことわり)だ」


 赫燕は、再び視線をぼんやりと地図に戻す。喉を焼く酒の熱さが、あの日の熱風を呼び覚ます。奥歯がギリ、と音を立てた。


 赫燕を止める、幼き朱飛の小さな手。紅蓮の炎に包まれながら、赫燕を突き飛ばし、睨み、叫ぶ、蘇月(そげつ)の姿。



『——戻ってはなりませぬ! 生きろ!』



 その絶叫は、いつまでも耳に残り、今もなお鮮明に響く。紫水晶を握りしめる手に、力が入る。


蘇月(そげつ)は、(えん)様を守ったことを誇りに思っていますよ」


 朱飛の声が遠くで反響するように、耳の奥で微かに震えた。


「死んだ奴の気持ちがわかるかよ」


 赫燕は、深く息を吐き出すように呟いた。


「わかるんです。……姉ですから」


「生きろなんて、押し付けやがって」


 杯に残っていた酒を干した。そしてその指で、地図の上に描かれた、玄済(げんさい)国の王都・呂北(ろほく)の名を、強く、ゆっくりとなぞる。一瞬だけ、その指先が震える。


 胸奥をよぎる、あの女の声。刺すように冷たいその響きが、なぜか耳に残って離れない。まるで棘のように内側からじわりと疼き、殺意を呼び覚ます。


「……今度は、灰も残さねえかもな」


 朱飛は深く一礼すると、再び音もなく闇に溶けるように去っていった。


 一人残された赫燕は、しばし地図の上の呂北(ろほく)を睨みつけると、卓に置かれた灯火に、ふ、と息を吹きかけた。揺らめき、抵抗し、そして消えていく最後の火を暗がりに慣れた瞳が見届ける。


 闇がより一層濃くなる中、空になった杯を指で弾くと、からん、という乾いた音だけが響いた。

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