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三十七話 すれ違う手 2

◇◇◇ 玉蓮(ぎょくれん) ◇◇◇


 会談が始まる前、天幕が設営される合間を縫って、劉永(りゅうえい)が玉蓮の元へ歩み寄ってきた。その眉根には、苦悩を物語る深い皺が刻まれている。


「玉蓮……」


 彼の視線が、玉蓮の唇、そして隠しきれていない首筋の(あと)へと滑り落ちる。その瞬間、劉永の言葉が途切れ、瞳に絶望にも似た色が走った。


 見てはいけないものを見たかのように、彼の視線が彷徨う。


(えい)兄様……」


 玉蓮の手を劉永が掴む。その優しさは、あの頃と変わらない。「真っ赤になってしまったね」と、傷だらけだった手を包み込んでくれた、あの暖かな手。違うのは、あの時よりもずっと骨太で大きいということ。


 そこから伝わる温もりが、復讐のために凍らせていたはずの心の芯を、じんわりと溶かしていくようだった。


「もう、あの頃の、わたくしではございません」


 玉蓮は、その温もりを断ち切るように、決然とした言葉を紡いだ。その声が、微かに震えていることには、気づかないふりをして。


 だが、玉蓮の手を掴む彼の指に、痛いほど力が込められる。


「——僕は、許婚(いいなずけ)をおいていない」


 脈絡のないその一言に、玉蓮の顔が勢いよく上がった。その言葉が何を意味するのか。幼い頃の戯れの言葉とは、響きが、熱が、全く違う。


「わた……くしは……」


「君を迎えたい。誰に反対されようと、構わない。僕が、君を望んでいる」


 力強い、真っ直ぐな言葉が玉蓮の胸を貫いた。その熱に、弱々しく首を横に振ることしかできない。


 劉家を継ぐということ。それは、白楊(はくよう)国の未来をその双肩に担うということ。白楊(はくよう)の中でも名家中の名家。その歴代の劉家の中でも天才と言わしめ、華やかな美貌を兼ね備えた劉永が望めば、どの姫君でも迎えられるはずなのだ。


「い、いけません。劉家が迎えるべきは、わたくしのような者ではなく……有力な王族か、貴族の……」


 劉永の想いが、ずしりと重く、玉蓮の息を詰めさせる。


「公主の責を果たすというのなら、有力な家に嫁ぐのも道の一つだ。理には適っている」


「ですが!」


「『僕のお嫁さんだっていいんだよ』と、言ったよね」


 あの頃の、茶目っ気のある響きはもうない。どこか気まぐれで掴みどころがなかったはずの兄弟子は、今、一つのものだけを定めるかのように、熱い眼差しを向けていた。


(えい)兄様……わたくしは、もう……」


 その先を続けることができない。言葉に詰まる玉蓮の手を、彼は、なおも強く握りしめる。そして——



 ——ブォォォォォオオ!



 会談の開始を告げる角笛の音が、空に響き渡った。名残を惜しむように、その指先に力が込められ、そして、ゆっくりと温もりが離れていく。言葉もなく、一度だけ視線が絡み合った。







 会談の天幕へと入ると、赫燕がこちらを見ずに、無言で手を差し伸べた。玉蓮が手を合わせれば、太い指が絡められ、強く引き寄せられた。


 そのまま、彼の隣——上座の席へと座らされる。全身が、赫燕の放つ熱と苛烈な気配に包まれる。


 やがて、重厚な足音と、控えめな咳払いが聞こえ、場に新たな緊張感がもたらされた。玄済国の代表団が姿を現したのだ。そして、その中心に立つ男によって、場の空気が、それまでの緊迫感とは全く異なる静謐(せいひつ)なものへと一変する。



 ——崔瑾(さいきん)



 彼が現れた瞬間、場を支配していた赫燕の荒々しい熱気が、一瞬にして冷たく凪いだ。纏う空気は、赫燕の放つ、全てを飲み込まんとする苛烈な「闇」とも、劉永の眩しいほどの「光」とも違う。どこまでも深遠な静けさ。


 まるで深い森の奥、一切の波紋を寄せ付けぬ底なしの湖。湖面は微動だにせず、全てを映しながら、同時に呑み込んでしまいそうな畏怖を抱かせる。


 崔瑾(さいきん)が身に纏うのは、燃えるような深い緋色(ひいろ)の衣。その色に映える涼やかな瞳が、悠然と、そして真っ直ぐに向けられている。


 赫燕と崔瑾(さいきん)。正面から向き合った二人の怪物が放つ凄まじい重圧の狭間で、玉蓮は押しつぶされぬよう、深く息を吸い込み、膝の上で拳を強く握りしめた。

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