二話 学び舎の異物 2
「先生……」
いつの間にか、そこに師である劉義が立っていたのだ。
玉蓮はまっすぐに劉義を見返すことができず、唇を尖らせながら樫の木の棒を背中に隠した。小さく劉義がため息をつく。
「……安い挑発に乗り、感情で盤面を乱す。玉蓮、それは軍師として、最も恥ずべき愚策だ」
その言葉は、他の弟子たちの耳にも届いたのか、彼女を嘲笑う声が起こった。
「そうだ、そうだ」「女のくせに」といった揶揄が耳に届き、玉連は、即座に彼らを睨みつけて黙らせた。だが——
「玉蓮」
再びの劉義の声に、玉蓮が一瞬、体をこわばらせた。だが、その時。後ろの方で「ふふ」と朗らかに笑う音がして、殺伐とした空気に亀裂が入った。玉蓮はその声の元へ視線を走らせる。
「——見事な一手だったね、玉蓮」
殺伐とした空気を塗り替えるように、柔らかく、透き通った声が降ってきた。鼓膜を撫でるその響きは、まるで春の陽だまりそのもの。さっきまでの冷徹な敵意が、朝露のように瞬時に散っていく。握りしめていた樫の棒から力が抜け、カラン、と乾いた音を立てて足元に転がった。
ゆったりとした足取りで歩み寄ってくる人影。ふわりと鼻先を掠めたのは、汗の臭いではなく、上質な香と、日向に干した布のような清潔な香り。劉永。師であり父である劉義さえも認める、塾で最も優れた兄弟子。この泥臭い男たちの世界で、彼だけが光を纏っているようだった。
劉永が穏やかな視線でちらりと兄弟子を一瞥すると、蹲っていた彼は気圧されたように口を閉ざし、そのままズルズルと後ずさる。玉蓮の隣に立った劉永は、彼女の髪を優しく撫でた。
「永兄様……」
「父、じゃなかった、先生。玉蓮は努力を惜しまないからつい、強くなってしまったのです。知略も武勇も」
「それはそうだが……」
「玉蓮の才は特別なのです。何より、先生の教えの賜物ではありませんか」
そして、彼は劉義の言葉から玉蓮を救い出すかのように、手を差し伸べて、また柔らかく微笑む。
「行こう、玉蓮。面白い書があるんだ」
白く、骨ばった綺麗な手。玉蓮は、差し出されたそれに半ば無意識で手を伸ばす。彼は、玉蓮の手を引いて歩き出したかと思うと、「あ」と声を小さく上げて立ち止まり、にっこりと笑って振り返る。
「先生、私たちは勉学に励みます。それでは」
劉永は、劉義に頭を下げると、玉蓮を伴って駆け出した。
「わ! 永兄様」
そして、廊下に出た途端、劉永がくすくすと笑い出す。
「あの顔、見たかい。父上は、君にだけは甘いんだ」
悪戯っぽく笑う劉永の横顔は、あまりにも眩しい。その温もりに触れている間だけは、鼻をつく血の臭いも、復讐の誓いも、すべて悪い夢だったかのように思えてくる。
「……永兄様」
玉蓮は小さく微笑んだ。けれど、繋いだその手には、先ほど人を打ち砕いた痺れが、まだ微かに残っている。玉蓮は胸の奥の痛みを隠すように、劉永の手をぎゅっと強く握り返した。




