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二十八話 触れる指


 真夜中。玉蓮は、人の(うめ)き声で目を覚ました。嵐の音に混じって聞こえる、苦しげな声。天幕の外では、いまだに激しい雨が打ち付け、雷鳴が遠くで轟いている。


 その呻き声の元を探して寝台の上へ視線を向ければ、あの赫燕(かくえん)が苦しみに身を(よじ)っていた。


(……お頭?)


 玉蓮は静かに起き上がり、足音を立てぬように、滑るように寝台に近づく。嵐の夜の闇が、彼の輪郭を曖昧にしているが、その苦しみの表情だけは、はっきりと見て取れた。己の喉から、声にならぬ音が漏れる。


「——っ」


「……ち、ちち、うえ……城が……!」


 汗で濡れた髪が額に張り付き、その表情は歪んでいる。深い皺が刻まれた眉間は固く寄せられ、苦痛の色に染まっている。苦しそうな吐息とともに目の前の男の目尻から水滴が流れ、大きな手が何かを求めるように、胸元で揺らめく紫水晶を握りしめた。


「……燃え…………そげつ……!」


 彼の口から紡がれるその音が、玉蓮の耳朶(じだ)を打ち、脳裏にこだまする。


(……ああ、これは)


 気が付けば、玉蓮は寝台の(かたわ)らで、彼の汗濡れた額に手を伸ばしていた。ただ、この男の傷に、痛みに、触れてみたかった。自分のそれに触れるように。


 その指先が、彼の肌に触れるか触れないかの、その刹那(せつな)。赫燕の目がカッと見開いた。


ガッ!


「——っ!」


 世界が反転した。玉蓮の体は寝台に押し付けられ、太い指が喉元に食い込む。赫燕の瞳は開いているが、そこにあるのは虚無と殺意だけ。玉蓮ではない、誰か、敵を見ている目。


「——何してやがる!」


「……ぁ、お……かし……」


 その時、天幕を揺るがすほどの雷鳴が轟いた。玉蓮の肩が、びくりと震えると、赫燕(かくえん)の瞳の焦点が結ばれ、そこから殺気が霧散(むさん)する。


「お前……」


 首を閉めていた手がふっと緩む。玉蓮は、肺を必死に動かして(あえ)ぐように息をした。


「何してんだ」


「……うなされていた、から」


「……クソ」


 彼は一度、大きく息を吐くと、固く瞳を閉じて玉蓮の横にドサリと寝転がった。そしてまた、呼吸を整えるように息をつく。


 玉蓮は体を起こして、赫燕(かくえん)を見下ろした。闇をぼんやりと見ていた瞳が、こちらに向けられる。睨んでもいない。(あざけ)ってもいない。ただ——少しだけ悲しそうな色を帯びた瞳。


 彼の額に張り付いた髪をそっと払う。その熱い肌に触れる指先から、微かな(しび)れが走るような感覚が玉蓮の全身を駆け巡る。赫燕(かくえん)は、何も言わずに、ただ玉蓮を見つめている。


 後宮で見てきた、白粉(おしろい)と香の匂いをさせた宦官や、柔らかな絹の衣をまとった文官たちとは、何もかもが違う。


 目の前の男にあるのは、酒と汗と、そして微かな鉄の香り。鍛え上げられた肉体から発せられる圧倒的な熱量。(つやめ)かしい顔立ちに宿る色気と、ならず者のような粗野な気配。そしてその全てを支配する、孤高の品格。


 その危うい均衡の上に立つ存在から、目が離せない。この男に近づけば、身も心も焼き尽くされると本能が警鐘(けいしょう)を鳴らしているのに、体は引き寄せられるかのように、彼の放つ熱に惹きつけられていく。


 玉蓮は、ただ本能のままに、彼の胸に顔をうずめた。その男の胸の熱さが頬にじわりと広がり、それと共にあの伽羅(きゃら)の香りが玉蓮を包む。汗と血の匂いと混じり合った、この男だけの香り。


 そのあまりにも甘い香りに、思考が溶かされていく。意識の中で彼の熱だけが濃く、強く残った。




 赫燕(かくえん)の腕が、玉蓮の体を、今にも砕けそうなほど力強く抱き寄せる。衣擦れの微かな音が、布を叩きつける嵐の(たけ)り狂う音に溶け込んでいく。


 外では雷鳴が(とどろ)き、稲妻が空間を一瞬だけ白く染め上げる。激しい雨が天幕の布を打ちつけ、世界から隔絶(かくぜつ)されたかのような密室の中で、息遣いだけが響き渡る。


 彼の熱い汗が一滴、玉蓮の鎖骨の上へと落ちた。その()けるような熱さに、玉蓮の肌がぞわりと粟立つ。抗いがたい快楽が、甘い痺れとなって背筋を駆け上る。


 玉蓮は、その腕の中で微かに震えながらも、その温もりに身を委ねた。赫燕の鼓動が、彼女の耳元で力強く響き、その一つ一つが、玉蓮の心を深く、深く沈み込ませていく。


 その刹那、彼の首元で、二つの紫水晶が、微かに揺らめいた。それはまるで生き物のように、彼の激しい動きに合わせ、玉蓮の柔らかな肌に、ひんやりと、そして執拗(しつよう)に触れてくる。彼の魂の()てついた欠片そのものが、じかに肌へと押し付けられているかのように。


 内側から込み上げてくる熱い吐息と、外側から容赦なく襲いかかる冷たい感触。その甘美な混淆(こんこう)が、玉蓮の意識をさらに深く、抗いがたい混沌(こんとん)の淵へと引きずり込む。


 肌に触れるたびに、紫水晶は妖しく光を放ち、その冷たさは、やがて麻痺するような甘さへと変わり、彼女の感覚を研ぎ澄ませていく。


 見上げれば、息がかかるほどの距離に、赫燕(かくえん)の瞳があった。深い孤独と、渇き。それは、鏡を見るように玉蓮自身の心を映し出している。


(ああ、この熱を——)


 この痛みを、塞がなければ。二度と戻れなくなると知りながら、もう抗えない。玉蓮は、吸い寄せられるように顔を上げた。触れ合った瞬間、嵐の音が遠のく。唇から伝わる熱が、身体の中の炎を(あお)る。それは口づけというよりも、互いの命を(すす)るような、あまりにも切実な接触。


 玉蓮の指がその(たくま)しい背中に食い込んだ。



 ——この男の闇に、孤独に、そして、その傷に、もっと深く触れたい。



 傷ついた獣たちが互いの傷を舐めあうような時間が過ぎていく。ただ、その肌の熱だけを頼りに、闇に包まれた一夜を乗り越えようとしていた。

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