二十七話 同じ痛み
外は、既に激しい雨音に包まれていた。革張りの幕を、雨粒がまるで無数の小石を投げつけるかのように、乱暴に、激しく叩き続けている。
赫燕が静かに、追い詰められた王を動かして、盤面の戦況を変える。
「——弱いままでいれば、奪われる」
ぽつりとした呟き。赫燕の一手に対して、必死に次の一手やその先を考えていた玉蓮の意識が、その小さな声に奪われた。
「奪われ続けるんだ」
唐突なその言葉は、ただその空間に漂うように響く。赫燕の顔を見ても、盤面に落とされた視線はこちらを向くことはない。
「……」
盤を見ているようで、何も捉えていない瞳に、玉蓮は言葉を返すことができなかった。空気は、ひどく重く、夜露に濡れた絹のように肌にまとわりつく。
「……あの将を斬った夜、眠れたか?」
赫燕は、視線を動かさず、ただ唇からこぼれ落ちるようにして事実だけを問うような平坦な声で尋ねた。
玉蓮は、あの日を思い出して、深く息を吸い込んだ。あの夜の土と鉄の混じった匂いが、鼻腔をかすめる錯覚に陥る。今でも、敵将の心の臓を貫いた、あの確かな感触が手に蘇る。骨と肉を断ち切る抵抗。そして、自分を食い入るように見ている瞳が、光を急速に失い、空虚を映して白く濁っていく様が、脳裏に灼きついて離れない。
「……任務ですから。眠れぬはずがありません」
玉蓮が答えると、赫燕はまるで幼子を諭すかのように、ふっと息を漏らす。その短い吐息が、玉蓮の張り詰めた平静を、わずかに揺るがせる。
「任務、か。便利な言葉だな」
赫燕の指は駒をコロコロと弄び、その瞳には今まで見たことのないような朧げな光を宿す。その瞳を見ていると、こちらの目頭に勝手に熱が集まりそうで、玉蓮は慌てて盤に視線を落とした。
「だが、夢に見なかったか。斬った相手の顔を」
玉蓮の駒を掴む手に、思わず力がこもる。何かから背けたくなった顔を、意地でも真っ直ぐに盤に固定して、伏せたくなった瞳を無理やりに見開いた。
「お頭、わたくしは——」
「一人殺せば、そいつの顔が夢に出る。十人殺せば、十の顔だ。百人殺せば、もう誰の顔かもわからなくなる。ただの肉の塊に変わる」
彼は手にした杯の縁を指でなぞりながら、独り言のように呟く。
「だが、そうなっても、たった一人だけ、忘れられない顔が残る」
赫燕の視線が虚空を彷徨った。いつもは揺らぐことのない、その瞳が微かにでも揺れてしまえば、玉蓮の心の臓がそれに呼応するかのようにぐらりと不安定に軋んでいく。
「そいつは、お前が殺した相手じゃねえ。お前のせいで死んだか、あるいは、お前が守れなかったやつの顔だ」
無意識なのだろう。 赫燕の指が、胸元の紫水晶に触れた。まるで、そこに焼き付いた誰かの体温を確かめるように。
彼の眉根がほんのわずかに寄り、杯を持ったままのその指は、強く、白くなるほど握りしめられる。赫燕は、杯を口元に運びながらも、口をつけずに、唇をただ引き結んだ。
玉蓮の脳裏に、姉の顔が鮮やかに蘇る。守れなかった、たった一人の大切な存在。姉の衣の赤色と、自分の唇から滴り落ちた雫の赤色が、今も脳裏にこびりついている。
「……お頭」
目の前の男を覆っていた恐怖の輪郭が、少しずつ揺らいでいく。彼が放つ圧倒的な闇の奥に、自分と同じ、決して癒えることのない傷跡が見える。
胸の奥で早鐘を打っていた心の臓の音が、ふと、その律動を変えた。けたたましく騒ぐでもなく、恐怖に慄くでもなく、ただどこか、じくりと疼くような痛みを抱えながら刻んでいる。復讐を誓ったあの日から、腹の奥で燃え盛っている冷たい炎が、ゆらりと強く揺らめいた。
赫燕は、それきり口を閉ざしてしまった。
盤面は、すでにどちらの王も裸同然。ただ互いを睨み合うだけの膠着状態。勝者も、敗者も、いない。ただ、盤上にあるのは、散らばる無数の駒の屍だけ。
激しい雨音と、重苦しい沈黙が満ちている天幕の中で、言葉少なに、二人は傍らにあった杯を重ねる。こつり、と陶器が触れ合う、乾いた音。その音だけが、雨音の合間に、やけに大きく響いた。
やがて、玉蓮は隅に積まれた獣の毛皮の上に身を寄せた。目を閉じても、赫燕の瞳に宿る昏い光が蘇る。それは、自らの胸の奥で燻る、決して消えることのない痛みと、あまりにもよく似ていた。




