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二十六話 鏡の中の獣

◇◇◇


 夕闇が辺りを覆い始める頃、外で風が唸りを上げ始め、嵐の到来を告げていた。雨を含んだ湿った土の匂いが、赫燕(かくえん)の天幕の中にも立ち込めている。赫燕(かくえん)と玉蓮の二人の目の前には、巨大な地図。そして、赫燕(かくえん)が広げられた地図の一点を、指でとんと叩く。


「玉蓮。この城を兵をほとんど失わず手に入れる方法がある。わかるか?」


 玉蓮は、劉義(りゅうぎ)の教えを思い出しながら、慎重に策を巡らせる。


「……兵糧(ひょうろう)攻めにし、内部からの降伏を待つのが、最も被害が少ないかと存じます」


劉義(りゅうぎ)のじじいに教わった正攻法を聞きに呼んだんじゃねえぞ。そのやり方で、奪えるかよ」


 赫燕(かくえん)は、心底つまらなそうに、ふっと息を漏らした。その侮蔑的な息遣いに、玉蓮の奥歯が、ぎり、と鳴った。布越しに(ふところ)の鳥に触れかけて、そのまま拳を握りしめる。


「お前は本当にあいつそっくりだな。頭かてえっつーか」


「先生をそんな風に言われるのは、心外です」


 彼女は一度、強く目を閉じ、浮かび上がる師の顔を振り払って、目の前の男の呼吸を真似るように、ゆっくりと息を吐いた。


(感情を殺せ。常識を捨てろ。一点のみを見据えろ——勝つために)


 盤上に浮かび上がる駒の一つ一つから、人間としての温度が消え、ただの木片になる。相手が最も嫌がる一手、最も残酷な一手を目掛けて思考を巡らせる。


(将を射るな。ここで壊すべきものは——)


「……城主の、大切なものを壊す」


 その言葉を口にした瞬間、舌の裏がひやりと痺れ、腹の筋が硬くなる。


「城主の嫡男。右の牙門(がもん)の戦場にいる、その者を捕らえ……城門の前へ引きずり出し……その首に剣を添えて、開門を要求します」


 自身の頭の中で、刃を首に突きつける姿が浮かぶ。色も温度もない、残像の切れ端のように。だが、その言葉の一つ一つを紡いだ唇も、地図を指し示すその指も微かに震えている。そこに突き刺さる、赫燕(かくえん)の視線。


「まだまだだが、悪くねえ」


 その声は、低く喉の奥で笑うような響きと、深く息を吐き出すような響きが、混じり合っていた。そして、彼はゆっくりと立ち上がると、隅に置かれていた一つの古い木箱を引き寄せた。


「……やるか」


 現れたのは、象棋(シャンチー)の盤。『帥』『将』『車』『馬』と字が刻まれた円形の駒。


「戦はただ一つ。王の首を獲るか否か、それだけだ」


 彼の指が、一つの駒を弾く。ぱちり、と。その乾いた音が、嵐の夜の天幕に響き渡る。


 赫燕(かくえん)の指す手は常に最短で、玉蓮の王(帥)の喉元へと迫る。そのために、自らの駒を、躊躇(ちゅうちょ)なく捨て駒にしていく。


 玉蓮は、劉義(りゅうぎ)に教え込まれた碁の(ことわり)で守りを固め、手薄になった王(師)を刺そうと布陣を保ち攻め上げたが、赫燕(かくえん)の猛攻の前に次々と食い破られていく。


 玉蓮は、一度、奥歯を噛み締めた。この男の盤の上では、正攻法でいけば、ただ殺される、と。


 同じように自らの駒を、捨て駒にする。指先が、氷に触れたように冷たくなる。これは木片ではない。生きた兵の命だ。だが、それを囮にし、彼の視線を逸らせた瞬間、駒を鋭く横合いから滑り込ませる。赫燕(かくえん)の脇腹を、鋭い刃で突き破るかのように。敵陣の真ん中へと叩きつけた。


——パヂィッ!


 硬質な音が、盤上に響く。その瞬間、赫燕(かくえん)の眉が僅かに動いた。それまで気だるそうに椅子にもたれていた赫燕(かくえん)が身を前に乗り出し、その指が卓の縁を、とん、と一度だけ叩く。そして、唇の端が、ゆっくりと深く吊り上がっていった。


 言葉はない。ただ、ぱちり、ぱちり、と駒の音が響くだけ。まるで対話をするように。互いの何かを盤上へとぶつけ合い、削り合っていくように。

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