二十六話 鏡の中の獣
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夕闇が辺りを覆い始める頃、外で風が唸りを上げ始め、嵐の到来を告げていた。雨を含んだ湿った土の匂いが、赫燕の天幕の中にも立ち込めている。赫燕と玉蓮の二人の目の前には、巨大な地図。そして、赫燕が広げられた地図の一点を、指でとんと叩く。
「玉蓮。この城を兵をほとんど失わず手に入れる方法がある。わかるか?」
玉蓮は、劉義の教えを思い出しながら、慎重に策を巡らせる。
「……兵糧攻めにし、内部からの降伏を待つのが、最も被害が少ないかと存じます」
「劉義のじじいに教わった正攻法を聞きに呼んだんじゃねえぞ。そのやり方で、奪えるかよ」
赫燕は、心底つまらなそうに、ふっと息を漏らした。その侮蔑的な息遣いに、玉蓮の奥歯が、ぎり、と鳴った。布越しに懐の鳥に触れかけて、そのまま拳を握りしめる。
「お前は本当にあいつそっくりだな。頭かてえっつーか」
「先生をそんな風に言われるのは、心外です」
彼女は一度、強く目を閉じ、浮かび上がる師の顔を振り払って、目の前の男の呼吸を真似るように、ゆっくりと息を吐いた。
(感情を殺せ。常識を捨てろ。一点のみを見据えろ——勝つために)
盤上に浮かび上がる駒の一つ一つから、人間としての温度が消え、ただの木片になる。相手が最も嫌がる一手、最も残酷な一手を目掛けて思考を巡らせる。
(将を射るな。ここで壊すべきものは——)
「……城主の、大切なものを壊す」
その言葉を口にした瞬間、舌の裏がひやりと痺れ、腹の筋が硬くなる。
「城主の嫡男。右の牙門の戦場にいる、その者を捕らえ……城門の前へ引きずり出し……その首に剣を添えて、開門を要求します」
自身の頭の中で、刃を首に突きつける姿が浮かぶ。色も温度もない、残像の切れ端のように。だが、その言葉の一つ一つを紡いだ唇も、地図を指し示すその指も微かに震えている。そこに突き刺さる、赫燕の視線。
「まだまだだが、悪くねえ」
その声は、低く喉の奥で笑うような響きと、深く息を吐き出すような響きが、混じり合っていた。そして、彼はゆっくりと立ち上がると、隅に置かれていた一つの古い木箱を引き寄せた。
「……やるか」
現れたのは、象棋の盤。『帥』『将』『車』『馬』と字が刻まれた円形の駒。
「戦はただ一つ。王の首を獲るか否か、それだけだ」
彼の指が、一つの駒を弾く。ぱちり、と。その乾いた音が、嵐の夜の天幕に響き渡る。
赫燕の指す手は常に最短で、玉蓮の王(帥)の喉元へと迫る。そのために、自らの駒を、躊躇なく捨て駒にしていく。
玉蓮は、劉義に教え込まれた碁の理で守りを固め、手薄になった王(師)を刺そうと布陣を保ち攻め上げたが、赫燕の猛攻の前に次々と食い破られていく。
玉蓮は、一度、奥歯を噛み締めた。この男の盤の上では、正攻法でいけば、ただ殺される、と。
同じように自らの駒を、捨て駒にする。指先が、氷に触れたように冷たくなる。これは木片ではない。生きた兵の命だ。だが、それを囮にし、彼の視線を逸らせた瞬間、駒を鋭く横合いから滑り込ませる。赫燕の脇腹を、鋭い刃で突き破るかのように。敵陣の真ん中へと叩きつけた。
——パヂィッ!
硬質な音が、盤上に響く。その瞬間、赫燕の眉が僅かに動いた。それまで気だるそうに椅子にもたれていた赫燕が身を前に乗り出し、その指が卓の縁を、とん、と一度だけ叩く。そして、唇の端が、ゆっくりと深く吊り上がっていった。
言葉はない。ただ、ぱちり、ぱちり、と駒の音が響くだけ。まるで対話をするように。互いの何かを盤上へとぶつけ合い、削り合っていくように。




