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二十三話 毒の熱


 その夜更け、玉蓮は、赫燕(かくえん)の天幕に呼び出された。天幕に一歩足を踏み入れると、むわりと、甘ったるい香と強い酒の匂いが彼女の鼻をつく。先ほどまで、あの女たちが彼の腕の中にいたのだ。その匂いが、玉蓮の胸を締め上げる。


 赫燕(かくえん)は、素肌に外套(がいとう)だけをかけて、座っていた。


「……お頭、何かご用でしょうか」


 玉蓮の棘のある声も気にせずに、赫燕(かくえん)は卓に広げた地図を睨みつけながら、ごきりと音を立てて、大きく肩を回す。


「肩を揉め」


「わたくしが、ですか」


「お前以外に誰がいる。早くしろ」


「…………はい」


 玉蓮は、戸惑いながらも彼の背後に立つ。


 その背中は、まるで岩壁のように広く硬い。恐る恐るその肩に手を置くと、指先が微かに震えた。硬質な筋肉の上に置かれた自分の手が、あまりにも小さく、頼りない。外套(がいとう)越しに、じんわりと熱が伝わってくる。


 その時、彼の胸元に、革紐に繋がれた二つの紫水晶がゆらめいているのが、ふと目に入った。天幕の油灯(ゆとう)のあかりを反射して、妖しく光るその奥に、一瞬何かが見えた気がして、玉蓮は目を凝らした。


「なんだ、男に触れるのは初めてか」


 (あざけ)るような低い声が響き、玉蓮ははっとして、肩を掴む指に力をいれる。


「……初めてではありません」


 精一杯の強がりを込めて答えたその声は、自分でもわかるほど上ずっていた。


「ほう。後宮の鳥かごにいたお前が、いつ男を知った」


「先生の元では、兄弟弟子たちに囲まれておりました。このくらい、なんともっ——!」


 言葉が終わる前に、腕を掴む力が、有無を言わさず彼女の体を宙に引き上げた。(あらが)う暇もなく、次の瞬間には、硬い筋肉の塊の上へと落ちていた。


「それは、恐れいったな」


 彼の逞しい太ももが、玉蓮の臀部(でんぶ)に触れている。熱を帯びた皮膚の感触が、薄い衣擦れの音さえもかき消すほどに、玉蓮の意識を奪い去る。


 目の前に迫る分厚い胸板。その美しい肌を蹂躙(じゅうりん)するように刻まれた、無数の傷跡。そこにあるのは、圧倒的な暴力の痕跡。


「ッ——!」


 反射的に視線を上げれば、(つやめ)かしい光を宿した赫燕(かくえん)の瞳があった。その瞳は、逃げ場のない獲物を見定めた獣のように、深く、鋭く、玉蓮を捉えて離さない。


「な、にを……」


 喉の奥で脈が跳ね、息が勝手に途切れる。目に映るのは赫燕(かくえん)の瞳だけ。伽羅(きゃら)の香が鼻腔(びこう)をくすぐり、全身を支配していく。


「隙だらけだな」


 低く響く声が、玉蓮の鼓膜を震わせる。


「お、お(たわむ)れを! おやめくださいっ」


 震える声で抗議し、唯一自由な左手で彼の胸を押し返そうとする。しかし、鋼のように筋肉が浮き上がった体はまるで岩のように微動だにせず、逆に彼女の指先がその強靭(きょうじん)な筋肉に吸い付くようだった。


「ぁ……」


 太い指が玉蓮の顎を掴み、軽く持ち上げる。もがく小動物の抵抗を楽しんでいるかのように、赫燕(かくえん)が微笑む。


 近づいてくる瞳に、玉蓮は金縛りにあったように動けない。彼の呼気が彼女の頬を撫でる。濃い酒の匂いと男の匂いに玉蓮がぐらりと揺らいだ。




「——お頭、朱飛(しゅひ)です」




 天幕の外から届けられた、静かで無機質な声。


 目の前の男の動きが、ぴたりと止まる。だが、赫燕(かくえん)は玉蓮を解放するどころか、そのままで、ただ「入れ」と短く返した。幕が上がる音、次に朱飛(しゅひ)が中に入ってくる足音が耳に届く。そして、普段よりも、わずかに長く、深い息を吐き出す音がした。


「……何を、しているんですか」


「見てわからねえか。(たわむ)れている」


 朱飛(しゅひ)の視線が、肌に突き刺さる。いっそ、このまま意識が途絶えてしまえばいい。そう思うのに、赫燕(かくえん)から目を逸らすこともできず、動くこともできない。


「……その遊びは、他でやってもらえませんか」


 朱飛(しゅひ)の静かな言葉に、ようやく赫燕(かくえん)の視線が玉蓮から彼へと移った。そして、まるで飽きた玩具を放るように、少し乱暴に玉蓮を膝から下ろす。


「こいつを受け取りに来たのか?」


「……いえ、報告が」


 赫燕(かくえん)朱飛(しゅひ)の会話をよそに、玉蓮はよろよろと立ち上がり、乱れた衣服を整える。一刻も早くこの場から逃れようと出口に向かい、入り口を塞ぐ獣皮(じゅうひ)に指先が触れた、その瞬間——


「おい。まだだ」


 背を撃つような声が落ちた。ゆっくりと振り返れば、そこには不敵な笑みを(たた)えた男。玉蓮は、奥歯で何かを噛み砕くように耐え、再び赫燕(かくえん)の背後へ戻った。


 今度は、体重を乗せて、ぐっと指先に力を込める。やはり鋼のような筋肉は、それでもびくともしない。


「まあ、ないよりはましだな」


 赫燕(かくえん)は、楽しげに喉の奥で笑った。指先から染み込む熱が、じわじわと血管を巡り、おかしな(しび)れとなって心臓を絡め取る。赫燕(かくえん)の前では、朱飛(しゅひ)が感情のない声で、報告を読み上げ始めていた。

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