二十二話 名付けられぬ熱
そこに、ふわりと伽羅が香ったかと思うと、赫燕の足音が間近に迫った。彼は無言で玉蓮の前に立つと、手に持っていた布包みを、彼女の足元に放り投げた。
——ゴロリ
布が解け、中身が転がり出る。見開かれたままの、光のない瞳。——敵将の、生首。
一気に生臭い血の匂いが周囲に立ち込め、玉蓮は咄嗟に息を止める。
赫燕は拗ねた子供をあやすかのように、その場にゆっくりと屈み込んだ。大きな体が月明かりを遮り、玉蓮は完全に彼の影の中に包まれる。
「——玉蓮」
周囲の漆黒の色が濃くなる代わりに、目の前の男の顔だけが炎の明かりに照らされて浮かび上がる。男の指が、玉蓮の顎に触れてそのままゆっくりと持ち上げた。
「よくやった」
低く落とされた一言が胸に広がり、その中心にある臓器を掴んで、律動を強めていく。昼間、地獄のような光景を無機質に眺めていた男の黒い瞳は、今、まさに玉蓮を映している。
玉蓮の胸の奥から、再びじわりと熱いものが込み上げた。それは、戦場で感じた、どの感情ともまた違う。恐怖でもなく、怒りでもなく、勝利の興奮でもない。
(……これは、なんだ)
この男の言葉一つで、心が揺れる。それも嵐のように。足元には、死臭を放つ生首。顎に触れる男の指。異常な光景だというのに、歓喜にも似た痺れが背筋を駆け上がる。玉蓮は、無意識のうちに、歯を食いしばった。
彼の唇の端が、微かに持ち上がっていく。満足げに笑うと、彼はすっくと立ち上がり、待たせていた娼婦たちの肩を乱暴に抱き寄せる。
赫燕の背が天幕の中に消えた瞬間、それまで遠くに聞こえていた宴の喧騒が、どっと耳に流れ込んできた。彼がいたほんの少しの間だけ、世界から音が消えていたのだと、その時ようやく気づいた。
残された玉蓮の耳に届くのは、天幕の奥から響く、淫靡な嬌声。足元に転がる生首の血の臭いが、この広大な野営地に満ちた喧騒と混じり合い、玉蓮の鼻腔をくすぐった。
先ほど赫燕から与えられた熱は、その淫らな音に掻き消され、胃の腑でどす黒い何かに変わっていく。指先が、いつの間にか冷たい土を強く握りしめていた。
顔を顰めたままの玉蓮の頭に、朱飛の大きな手がそっと置かれる。その手のひらから伝わる不器用な温かさ。見上げると、彼の目元がほんの少しだけ、緩んでいた。
「……昼間は、見事だった」
その言葉は、玉蓮の心に温かい雫のように染み渡り、強張っていた全身からほんの少しだけ力が抜けていく。
「お前が道を確保しなければ、策自体が危うかった。何より敵将を討ち取ったんだ。よくやったな」
朱飛の労いの言葉に、一瞬だけ晴れやかになったかと思った玉蓮の心は、再び重く沈む。その視線は、すぐに嬌声の漏れる赫燕の天幕へと向かう。
「……お頭は、やめておけ」
朱飛の唇から漏れ出たようなその一言に、玉蓮が顔を上げる。
「わたくしは——」
「あの人は、光も闇も、全てを飲み込んで進む。言っただろう、喰われると」
「……別に」
そう言いながらも、赫燕の放つ圧倒的な何かに囚われ、その底知れぬ深淵に引きずり込まれていきそうな自分がいることも、頭のどこかでわかっている。否定の言葉は、唇の奥で燃え尽き、ただ名付けられぬ熱だけが胸に残った。




