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十八話 眼下の地獄


 玉蓮(ぎょくれん)が息を切らしながら味方の陣地へと戻ると、そこには、牙門(がもん)が待ち構えていた。熊のような巨体で地を揺らしながら駆け寄ってくると、その大きな手で玉蓮の肩を乱暴に叩く。


「おい、玉蓮!」


「いたっ。牙門(がもん)、痛いです!」


「本当にやりやがったな!」


 その声は、いつものような野太い響きではなく、少しだけ上擦っている。牙門(がもん)の隣では、(じん)が血のついた双刀を(さや)に納めながら、笑みを浮かべている。


「腰が引けて、剣先が震えてたがなー。まあまあじゃねえの」


 血の匂いがする手で、玉蓮の頭を乱暴に撫で付けるから、玉蓮は頬を膨らませてその手を払う。


「髪が汚れます」


「はあ!? お前な、すでに血まみれだっつーの! こうしてやる!」


「な、何をするのです!」


 (じん)は、玉蓮の頭を長い腕で抱え込み、さらに自分の甲冑についたべっとりとした返り血をそこに擦り付ける。鼻腔(びこう)を塞ぐ、濃厚な鉄の臭い。他人の血の脂が、肌に張り付く感触。


「おやおや、これはこれは。なかなかの手際だったようで」


 三人が(たわむ)れていたところに、馬に乗った子睿(しえい)が扇子で口元を隠しながら、ぬ、と現れた。


「初の武勲、おめでとうございます。ですが、姫様。本当の地獄は、ここからですぞ。お頭の、あのやり方をその目で、とくとご覧なさいますかな」


 子睿(しえい)の声音は、戦場の喧騒(けんそう)とはかけ離れ、まるで遊技を楽しむかのような軽薄さを含んでいる。その視線が、玉蓮の背後に広がる戦場の奥へと向けられる。


 振り返った玉蓮の目が、見開かれた。


 谷の出口。そこは巨大な石臼のように、逃げ場を失った玄済(げんさい)兵をすり潰していた。傷つき、命乞いをする甲高い声が、次の瞬間には断末魔の(うめ)きに変わる。武器を捨てて両手を挙げた兵が、笑い声と共に斬り伏せられる。逃げ惑う背中を、無数の槍が貫く。重なり合った骸の上を、赫燕(かくえん)軍の騎馬が(ひづめ)で踏み荒らしていく。


 そこに「武」はない。あるのは一方的な狩りと、愉悦だけ。


 敵将の血で火照っていたはずの頬から、急速に血の気が引いていく。体の芯に残っていた熱が、まるで冷水を浴びせられたかのように、一瞬で凍てついた。


 煙の匂い、肉を裂く音、鮮血の色——それらすべてが一度に押し寄せ、玉蓮の喉を締め付けた。


「う、ぐっ…」


 酸っぱい液が喉に逆流し、視界がにじむ。肩が震え、(こら)えるように唇を噛んだ。


 姉を殺した国の兵だ。憎むべきものだ。その首が()ねられるたびに、快哉(かいさい)を叫ぶはずだった。胸がすくような思いで、この光景を見るはずだった。だが、鼓動は跳ね上がるばかりで、喉に湧くのは血の匂いに混じる酸の味。


 ふと、視線を感じて顔を上げると、夕日を背にした男が崖に立っていた。紫紺の衣をはためかせ、燃え尽きた灰を眺めるような無機質な瞳をこちらに向けながら。


 玉蓮は、その視線から逃れるように俯く。だが、俯いた視線の先に広がるのは、一面の血の海。胃の()が、ギリギリと締め付けられるような不快感に、決意を支えていた背骨が音を立てて(きし)む気がした。


 子睿(しえい)が再び玉蓮の隣に馬を並べる。悲鳴と怒号に混じって、その声が耳に届く。


「捕虜を先ほど一人、放しました」


「……なぜ?」


 玉蓮の問いに、子睿(しえい)は涼やかな笑みを浮かべる。


「『白楊(はくよう)の華が、鬼神の如く敵将を討った』——そう、生きたまま国へ持ち帰らせるためです」


「それが、何になるというのです」


「お頭の采配(さいはい)ですよ。これであなたの名は、恐怖と共に玄済(げんさい)全土へ轟くでしょう」


 子睿(しえい)が扇子を口元に当てて微笑んだ。眼下で人が絶叫していることなど、まるで意に介していない、完璧なまでの美しさで。

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