一話 一振りの刃 3
◇◇
姉の婚礼の知らせが届いたのは、その年の春。
分厚い扉の向こうで響く王の無機質な声は、いつ聞いても王のものでしかなくて、他の姉妹たちが言う「優しい父上」は一体いつになれば現れるのだろうと玉蓮は首を傾げた。
「——玄済国へ、嫁げ」
その声を聞いて、その言葉を聞いて、玉蓮は改めて思う。父は、やはり命を下す王なのだ、と。
(父上ではない。あれは——王だ)
そして、扉の前で己の薄汚れた衣を見下ろして、思う。
(では——わたくしは、わたくしたちは、一体なんだ?)
ぼんやりと玉蓮が立ち尽くしている間に、王に答えているのであろう、大臣たちの声が耳に届く。
「貢物は、宮女の腹で育った公主で足りるか」
「十分でしょう。玄済の王太子は『美しい器』がお好みだとか」
「器か……中身が空っぽでも、見栄えが良ければ半年は保つか」
まるで、冷たい盤の上に打ち据えられる捨て石のように、姉の運命が決められていく。公主でもない。ましてや娘でもない。「姫」という名前のついた、牛や馬。敵国を黙らせるための、ただの道具。
姉は、その決定に、怒りもせず、泣きもせず、ただ微笑んで頷いた。玉蓮がどれだけ泣いて訴えても、ただ微笑んだのだ。
そして数日のうちに迎えた、ひっそりと整えられた出立の日。姉の華やかな婚礼衣装は、まるで彼女の命そのものを吸い上げたかのように、目に痛いほどに鮮やかに輝く。
祝いの楽隊も、爆竹の音もない。裏門に満ちているのは、どぶ川を流れる水の音と、鴉のしわがれた鳴き声だけ。その静寂を切り裂くように、姉の纏う赤の裾が、汚れた石畳を擦って「ず、ず」と重い音を立てる。重厚な金糸の模様が、姉の華奢な肩に爪を立てるようにのしかかっている。
「玉蓮、良いですか」
「あね……う、え……」
こらえきれず、頬に涙が伝う。
「これからは一人で強く生きていくのですよ。負けてはいけません。いかなる時も、顔を上げなさい。公主の責務を果たすのです」
玉蓮の頬に流れる涙を優しく拭うその指が、微かに震えている。ひんやりとしたその冷たさに頬を寄せて、そっと自分の手で包み込んだ。
そして、玉蓮は、手をいっぱい伸ばして、そのまま姉の背にしがみつく。どくん、どくんと響く鼓動が、姉の胸元から伝わり、それが玉蓮の心臓に染み込んでいく。
「……玉蓮は、負けません。もっと、もっと強くなります」
「約束ですよ」
優しく微笑む姉の手が、玉蓮の左胸に添えられた。
「最後の約束です」
「かならず……」
震えて形を作れない唇をなんとか動かして答えれば、姉はその美しい顔でさらに笑みを深めた。そして——
「玉蓮、これを」
胸元から取り出された木彫りの鳥が、こてんと玉蓮の手のひらに転がって、その滑らかな木の肌から、微かに爽やかな香りを漂わせた。
「これは……」
玉蓮の瞳が、その鳥の羽の先を捉えた。そこにあったのは、姉が刀を握りしめた際にできたであろう、ごくわずかな爪の跡。
「玉蓮を、守ってくれますように」
玉蓮の髪を優しく撫でるその手が、いつもよりもずっと柔らかくて、ずっと温かくて、言葉にさえならない声がただ漏れ出る。
「あ、あねっ……うっ、ぁ」
「……では……参ります」
ゆったりと、どこまでも美しい所作で一礼をした姉が、ふわりと衣を翻して馬車に乗り込む。
——行かないで。口が裂けても言ってはならない言葉が、音にならずに喉で詰まって消えていく。
(言わなきゃ……姉上に……絶対に)
馬車の窓から顔を出している姉の微笑み。それを見て、どうにか頬を流れていく涙を手で、腕で、ぐい、と拭って顔を上げる。
「あ、姉上……どうか、どうか、お幸せにっ——!」
玉蓮の喉から絞り出された声は、馬車の動き出す音にかき消され、空に吸い込まれていった。その小さな鳥を胸に抱きしめて、遠ざかる馬車をただ見つめる。馬車の車輪が巻き上げる土埃が、空へと舞い上がっていく。




