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十六話 囮の王 1

◇◇◇


 数日後、赫燕(かくえん)軍は、玄済(げんさい)国との国境に位置する城を落とすべく、進軍を開始した。


 軍議の天幕に渦巻く、異様な熱気。息を詰める将兵たちの視線が一点に集中する中、赫燕(かくえん)軍の軍師・子睿(しえい)が広げられた地図を前に、今回の戦術を淀みなく説明する。


 泥と汗にまみれた陣営にあって、そこだけ雪が降ったかのような、染み一つない衣。完璧に結い上げられた髪。まるで、この天幕の中だけが、季節の違う場所であるかのような錯覚を覚える。彼の周りだけ、空気が冷たく澄んでいるのだ。子睿(しえい)の声は、理路整然と並べられるように、また歌うようにそこに落とされていく。


「——以上が、今回の策です。我ら本隊は、深く追撃されたと見せかけ、この谷間まで後退します」


 その、策の内容に玉蓮の目が見開かれる。一歩間違えば、赫燕(かくえん)もろとも包囲殲滅(せんめつ)される危険を孕んでいたからだ。


子睿(しえい)。お頭を……餌に、するのですか」


 喉が締まり、声が裏返った。自身の声の響きに、一瞬、玉蓮は思わず目を伏せる。しかし、子睿(しえい)はにこやかな表情を崩さない。


「そうですよ、玉蓮。あなたは反対ですか?」


 ゆったりとした柔らかい問いかけの声に、指先まで一気に冷たくなる。この場にいる誰もが、自軍の大将を囮に使うという策に異を唱えない。疑問の声すらも上がらない。


 玉蓮の脳裏に、騎馬民族の(いにしえ)の教えがよぎる。彼らは王でさえも自ら前線に立ち、その武勇を示すことを(たっと)ぶ。白楊(はくよう)国も確かに騎馬民族を祖に持つ国。それでも——


「しかし、総大将が囮になど……!」


「玉蓮」


 玉蓮はなんとかして言葉を(つむ)ごうとしたが、朱飛(しゅひ)の静かな声によって打ち消された。


「お頭が前に出て、それを追ってくる敵を討つ。それが俺たちのやり方だ」


「ええ、朱飛(しゅひ)。その通りです」


 子睿(しえい)は、まるで詩歌の宴にいるかのように、柔らかく優雅に頷く。玉蓮は息を呑み、再び地図に視線を落とした。


子睿(しえい)。お頭を餌にすると言っても、敵がそこまで深追いしてくるという保証は?」


 栗色の髪を掻きあげながら、(じん)が問う。迅の問いに、子睿(しえい)は少しも動じることなく、扇子で口元を隠して、にやりと笑った。


「保証、ですか。ええ、ありますとも。捕虜が、面白いことを歌っておりました。『我らが兵糧(ひょうろう)は三日も保たぬ』と」


 その一言に、将たちの顔色が変わる。


兵站(へいたん)が滞っているのです。理由は定かではありませんが、あちらのお国の問題のようですね。故に、敵のあの剛将(ごうしょう)であれば、必ず短期決戦に乗ってくる」


「おー、なるほどな」


「退路は、朱飛(しゅひ)隊がこの獣道に潜み、我らが通り抜けるまで死守。そして、お頭の本隊を追撃してくる飢えた犬たちの、その側面を突くのです」


 赫燕(かくえん)に視線を向ければ、彼は杯を(もてあそ)びながら、興味もなさそうに一同を眺めていた。その目が、ふとこちらに向けられ、玉蓮の肩が微かに跳ねる。


「おい、姫さん。お前は、朱飛(しゅひ)の指揮下で、この道の入り口を死守しろ。敵の斥候(せっこう)一匹たりとも、近づけるな」


 言葉の重みが、ずしりと両肩にのしかかり、拳を握りしめる。しかし、彼の言葉はそれで終わらない。


「そこから——俺と牙門(がもん)を追って飛び込んでくる敵将の首を、(じん)の隊とともに仕留めろ」


 重く、揺るぎないその命令が、玉蓮の鼓膜を震わせる。


(敵将の首を——?)


 まだ一度も実戦を経験したことのない玉蓮は、すぐに言葉を返せずに赫燕(かくえん)を見つめ返す。


 必殺の部隊である迅の隊に入り、その最前線で敵将の首をとる。頭の中でそれを繰り返すほどに、地が揺らぎそうになり、玉蓮は強く踏みしめることで、かろうじて頷きを返した。指先は白くこわばり、血の気が引き、剣の(つか)に触れた指の感覚さえ曖昧になっていく。

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