十六話 囮の王 1
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数日後、赫燕軍は、玄済国との国境に位置する城を落とすべく、進軍を開始した。
軍議の天幕に渦巻く、異様な熱気。息を詰める将兵たちの視線が一点に集中する中、赫燕軍の軍師・子睿が広げられた地図を前に、今回の戦術を淀みなく説明する。
泥と汗にまみれた陣営にあって、そこだけ雪が降ったかのような、染み一つない衣。完璧に結い上げられた髪。まるで、この天幕の中だけが、季節の違う場所であるかのような錯覚を覚える。彼の周りだけ、空気が冷たく澄んでいるのだ。子睿の声は、理路整然と並べられるように、また歌うようにそこに落とされていく。
「——以上が、今回の策です。我ら本隊は、深く追撃されたと見せかけ、この谷間まで後退します」
その、策の内容に玉蓮の目が見開かれる。一歩間違えば、赫燕もろとも包囲殲滅される危険を孕んでいたからだ。
「子睿。お頭を……餌に、するのですか」
喉が締まり、声が裏返った。自身の声の響きに、一瞬、玉蓮は思わず目を伏せる。しかし、子睿はにこやかな表情を崩さない。
「そうですよ、玉蓮。あなたは反対ですか?」
ゆったりとした柔らかい問いかけの声に、指先まで一気に冷たくなる。この場にいる誰もが、自軍の大将を囮に使うという策に異を唱えない。疑問の声すらも上がらない。
玉蓮の脳裏に、騎馬民族の古の教えがよぎる。彼らは王でさえも自ら前線に立ち、その武勇を示すことを尊ぶ。白楊国も確かに騎馬民族を祖に持つ国。それでも——
「しかし、総大将が囮になど……!」
「玉蓮」
玉蓮はなんとかして言葉を紡ごうとしたが、朱飛の静かな声によって打ち消された。
「お頭が前に出て、それを追ってくる敵を討つ。それが俺たちのやり方だ」
「ええ、朱飛。その通りです」
子睿は、まるで詩歌の宴にいるかのように、柔らかく優雅に頷く。玉蓮は息を呑み、再び地図に視線を落とした。
「子睿。お頭を餌にすると言っても、敵がそこまで深追いしてくるという保証は?」
栗色の髪を掻きあげながら、迅が問う。迅の問いに、子睿は少しも動じることなく、扇子で口元を隠して、にやりと笑った。
「保証、ですか。ええ、ありますとも。捕虜が、面白いことを歌っておりました。『我らが兵糧は三日も保たぬ』と」
その一言に、将たちの顔色が変わる。
「兵站が滞っているのです。理由は定かではありませんが、あちらのお国の問題のようですね。故に、敵のあの剛将であれば、必ず短期決戦に乗ってくる」
「おー、なるほどな」
「退路は、朱飛隊がこの獣道に潜み、我らが通り抜けるまで死守。そして、お頭の本隊を追撃してくる飢えた犬たちの、その側面を突くのです」
赫燕に視線を向ければ、彼は杯を弄びながら、興味もなさそうに一同を眺めていた。その目が、ふとこちらに向けられ、玉蓮の肩が微かに跳ねる。
「おい、姫さん。お前は、朱飛の指揮下で、この道の入り口を死守しろ。敵の斥候一匹たりとも、近づけるな」
言葉の重みが、ずしりと両肩にのしかかり、拳を握りしめる。しかし、彼の言葉はそれで終わらない。
「そこから——俺と牙門を追って飛び込んでくる敵将の首を、迅の隊とともに仕留めろ」
重く、揺るぎないその命令が、玉蓮の鼓膜を震わせる。
(敵将の首を——?)
まだ一度も実戦を経験したことのない玉蓮は、すぐに言葉を返せずに赫燕を見つめ返す。
必殺の部隊である迅の隊に入り、その最前線で敵将の首をとる。頭の中でそれを繰り返すほどに、地が揺らぎそうになり、玉蓮は強く踏みしめることで、かろうじて頷きを返した。指先は白くこわばり、血の気が引き、剣の柄に触れた指の感覚さえ曖昧になっていく。




