十三話 獣の道
そんな二人の間に、新たな影が落ちた。ゆっくりと、闇の中から現れたかのように、赫燕がそこにいた。彼は倒れたまま呻いている男の頭を、つま先で無造作に転がす。
「……何だ、このザマは」
彼の視線は朱飛を通り越し、震える玉蓮に突き刺さった。まるで心の臓を直接見透かされているような感覚に、玉蓮の呼吸が止まる。彼が現れただけで、空気そのものが密度を増し、肌を圧迫してくる。
「威勢よく俺の軍に来たと思えば、男数人に囲まれて泣き喚くのが関の山か」
嘲るような響きに、焦げつくような熱が玉蓮の胸を走る。
「復讐だなんだと劉義のじじいのとこで息巻いてた威勢はどこへ行った、姫さん。お前の思いはその程度か」
その言葉を聞いた瞬間、玉蓮の膝の震えが、ぴたりと止まった。恐怖で凍りついていた血が、一瞬にして沸騰する。玉蓮は、弾かれたように顔を上げる。潤んでいた瞳は乾き、ただ目の前の男を射殺さんばかりの業火を宿して、強く睨み返した。
その刹那。
赫燕の動きがぴたりと止まった。愉悦に歪んでいたはずの唇はその形を失い、深淵のような瞳から、玉蓮を嬲る光が消え失せた。
その代わりに宿ったのは、まるで底なしの闇を覗き込むような、昏い光。目の前の男の瞳が、僅かに、そして鮮明に揺れている。
(——え?)
しかし、その揺らぎは、瞬き一つをした後に、すぐに元の色に戻る。
「ほう……やっと、獰猛な山猫みたいな目になったな」
赫燕の口元に、再び笑みが浮かんだ。彼はゆったりと一歩、玉蓮に近づく。
その距離が縮まるごとに、玉蓮の心の臓は燃え盛るように激しく高鳴る。しかし、彼女は一歩も引かず、その場に両足を留めた。
「だが……」
赫燕は、玉蓮の耳元に顔を寄せると、誘惑するように甘く、底知れない冷たさを秘めた声で囁いた。
「その程度の悲鳴じゃ、玄済の王は喜ばねえぞ。あれはもっと、魂ごと引き裂くような叫びを好む。お前の姉があげた——」
——シャリン。
静寂を切り裂く、硬質な金属音。いつの間にか鞘から抜き放った玉蓮の剣が、男の顔の前で鈍い光を揺らめかせる。
「——黙れ」
喉の奥から絞り出したのは、人の声ではなかった。凍てついた湖が、軋んで割れるような音。
四肢を切り落とされ、皮膚を剥がされた姉を想像したくもないのに、脳裏に真っ赤に血塗られていく姉が浮かぶ。血が沸騰する。その熱で、血管が引き裂かれそうだ。
ブルブルと震える剣を前に、赫燕は、さらに一歩踏み込んだ。
「っ——!」
「いいか」
剣の刃が赫燕の喉仏に触れて、微かに血が滲み出しているのに、目の前の男はただ玉蓮を見下ろしている。
「復讐だなんだと口にするなら、牙を剝け。食い殺される前に、食い殺せ。お前のその綺麗な爪じゃ、まだ誰も殺せねえぞ」
その体から発せられる圧が、周囲の空気を歪ませ、呼吸すら困難にさせる。それは、戦場で浴びたであろう血と鉄の匂い。それに混じる、あの伽羅の香り。そして、何よりも、この男自身の肌から発せられる、抗いがたい匂い。
赫燕の声が、玉蓮の心の臓に直接響く。背筋を駆け上る冷たさとは裏腹に、腹の底では何かが熱く燃え上がる。足は退けと叫ぶのに、胸の奥では別の声が奥底を覗けと囁いている。彼の瞳の奥に宿る、どこか獣じみた光が、玉蓮の奥底に潜む暴力的な衝動を刺激する。
赫燕は、玉蓮の瞳の奥を確かめたかのように、満足げに口の端を吊り上げると、踵を返した。
「そいつを殺すか殺さないかは、お前が決めろ」
闇に消えていく背中。言葉は、足元で蹲っている男を指している。玉蓮は、前に出したままだった剣を今度はゆっくりと足元に向ける。その指先が白くなるほど、強く、強く、握りしめながら。
(殺してしまえ——!)
女を襲うような奴など、殺してしまえばいいとそう思うのに、指が震え、切先は細かに揺れる。
「くっ……」
振り下ろされた剣先は、男の首のわずか横、土を深く削っただけだった。玉蓮は逃げるように背を向け、闇の中へと歩き出した。背後で、安堵とも恐怖ともつかぬ男の呻き声が遠のいていった。




