百十六話 龍の叫び 2
しかし、玉蓮は目の前の女だけを見つめていた。太后は相変わらず無言のままで、虚ろな目をこちらに向けている。彼女の表情からは、何の感情も読み取れず、人形のようにそこに座っていた。
玉蓮は懐から、香炉の欠片を取り出して掲げた。
「あなたの母君を殺した凶器は、これにございます。夏の国を象徴する四本角の龍が施された香炉」
王は玉蓮の手にある欠片を凝視している。四本角の龍が彫り込まれたそれを。
「貴様は何を言っている! 母上が夏の国から嫁がれたことは周知の事実! これがあるから何だというのだ!」
王は、その言葉と共に玉蓮に掴みかかろうとした。だが、その横で、太后が、ふうっと美しく紅い唇で息を漏らす。遠い昔を懐かしむような、あるいは諦めのような、複雑な感情を宿して。
「それは確かに私が当時の王后に贈った、夏の国の香炉の欠片……それが、どうしたというのだ?」
「この香炉には、毒性の高い鉱物、『龍の逆鱗』が塗られております。夏の国の王家に伝わる秘伝の鉱物。崔王后の火災の記録にも香炉があったと残っています」
玉蓮は、王ではなく、太后だけを見据えている。彼女の視線が香炉から玉蓮へと移る。その深淵のごとき双眸の奥で、微かな動揺が波紋のように広がった。
「太后様。なぜ、崔王后に、この呪いの龍の香炉を贈られたのですか」
「……呪いの龍?」
王が、震える声でそう呟く。玉蓮は、ゆっくりと王へと視線を向ける。
「これは、夏の国の王族に古くから伝わる『蟠龍の蠱毒』。四本の角を持ち、とぐろを巻く龍は、まさしく呪いの印。この香炉で焚く香毒は、極上の伽羅の香りを装い、嗅いだものを緩やかに、しかし確実に死に導きます。あなたを命懸けで救ったと語る、この女が、あなたの母君に贈ったのです」
王の顔から血の気が引き、その瞳には激しい戦慄が浮かぶ。そして、太后からは息を呑む音が聞こえた。
「そなた……なぜ、それを」
「そちらの伽羅の香に、この欠片を入れますか?」
太后は、ゴクリと喉をならした。その音は、まるで乾いた大地に落ちる一滴の水のように、重く響く。玉蓮は、再び王を視界に入れた。
「この女は、あなたの母君をその手で殺めた、ただの人殺し。そして、あなたは……その人殺しが作り上げた、道具にすぎませぬ」
目の前の男の顔から、色が抜け落ちた。手と足を懸命に動かして、母と呼ぶ女に抱きつくようにして、肩を掴む。
「は、母上……? こやつ、嘘をついているのですよね!? 母上は、火の海から幼い私を救ってくださった——」
太后が袖を払い、王を突き飛ばした。王が無様に尻餅をつく。
「……まったく。誠に憎らしい。なぜ、白楊の小娘がそれを知っている。蟠龍の蠱毒はまさに秘伝。王族しか知らぬのだぞ」
「……ま、誠に……私の母を……殺したのですか?」
太后は、首をこきりとひねり、見下すように王に視線をやる。扇をもった手首が大きく回旋し、その口元で広がった。
「私の腹は、夏の王子を産んだ時に傷つき、もう孕むことはできなかった。でも、王子は産まなくても問題はない」
ゆらりゆらりと、扇が揺れる。その隙間から見える口元が弧を描き、紅い唇の端が釣り上がっていく。
「——奪えば良いのだ」
「なぜ、私を……」
「そなたは、腐っても崔家の血筋。王子の中で最も高貴な血を持つ者。そして——傀儡にするに丁度良い愚純さだった」




