百十三話 閃光
その脂ぎった指が、玉蓮の肌に触れる寸前。雲が裂け、月光が刃のように寝室を切り取った。玉蓮の口元に、ほんの微かな、しかし氷のように冷たい笑みが浮かぶ。かつて、あの男が獲物を前に浮かべていた、あの不遜な笑みと同じように。
周礼の、あの粘つくような笑みが、ほんの一瞬、引き攣る。彼は伸びかけた手を止め、気まずそうに視線を逸らして杯を呷った。玉蓮のその表情を、絶望のあまり心が壊れたゆえの狂笑だと勘違いしたのだろう。
「そ、そういえば、貴女様の姉君も、白楊から来られた美しい姫でしたな」
周礼は、玉蓮の前に座り込むと、卓に置かれた酒瓶を手に取った。高々と掲げられた杯の中には、とろりとした琥珀色の液体。その揺らめきが、彼の歪んだ高揚を映し出していた。
「いやはや、貴女様の姉君には、困ったものでした。あまりにも賢く、あまりにも気高すぎた……見るべきではないものを、見てしまわれたのです」
周礼は、玉蓮に、なみなみと注がれた杯を差し出す。
「あの気位の高い姫君は、私の小さな商売を知ってしまわれた。そして、それをあろうことか王に伝えようとしたのです……実に、愚かなことです。軍需物資の横流しなど小事にもかかわらず。この国では、真実を知りすぎた者は、生きながらえることはできぬのに」
卓の上に置かれた琥珀の液体。
「さあ、貴女様は賢い姫君だ。この国の理をもうご理解されているはず。この杯をお受けになるでしょう? 姉君のように、愚かな選択はなされますまいな」
玉蓮の瞳を覗き込むように顔を近づける。酒と脂の臭いが鼻をつく。
「王のあの残虐な性分はご存知でしょう。あれを、ほんの少し煽ってけしかけてやるだけで、女一人、始末するのは赤子の手をひねるも同然。四肢を切り落とし、皮を剝ぐまでいかれるとは……まあ、その裏には強大な力を持つ太后様がいらっしゃいますからな」
玉蓮の脳裏に、姉の優しい笑顔が蘇る。冷たい後宮で、自分の手を握りしめてくれた、たった一人の姉。その姉が、四肢を。皮を。
(——ああ、そうか。お前だったのか)
衣の陰で、玉蓮の指が音もなく匕首の柄を確かめた。指先に、月の冷たさが走る。
「白楊軍が都に迫っているらしいが、案ずることはない。私には、大孤に逃れる道がある。崔瑾を始末した褒美に、貴女様を太后様より貰い受け、この玄済国が滅んだ後は大孤の功臣となるのだ」
「旦那、様を……?」
「そうですぞ。崔瑾はすでに毒杯で死んでいる。あの崔瑾を始末してやったのだ。誰もが返せぬほどの恩を売ってやったわ! 崔瑾の喪が明けるまでもなく、貴女様を手に入れて差し上げましょう!」
周礼が高笑いと共に、再び手を伸ばしてきた。
瞬き、一つ。鼓膜の奥で、低い声が響く。
『——そいつの喉笛に、剣を突き立てろ』
次に目蓋を上げた時、世界から音が消えていた。銀色の閃光が、迸る。懐から抜いた赫燕の匕首が、月を吸って冷たく光る。玉蓮の腕は、思考よりも速く、迷いなく伸びた。喉笛へ一直線に。
——ズグググッ
肉を裂き、気管を断つ、湿った感触。
周礼が悲鳴を上げようと口を開いた瞬間、玉蓮は素早く衣の袖で男の口を覆い、その音を飲み込ませた。
「……っ、ぐ……ッ!?」
くぐもった呻き声。ごぼり、ごぼり、と血の泡が弾ける湿った音。そして、鼻腔を突く、むせ返るような鉄錆の匂い。
玉蓮の手元で生暖かい液体が溢れ出し、噴き出した血飛沫が純白の衣を赤黒く染め上げていく。周礼の目が、限界まで見開かれている。何が起きたのか理解できぬまま、目の前の女を見上げている。
そして、その瞳に映る、自分の顔。
(——ああ、そうだ。この顔だ)
あの男が、いつも浮かべていた、あの美しくも不遜な笑み。恐怖も、躊躇いもない。獲物の息の根が止まるのを冷たく見届ける、捕食者の瞳。
周礼の体から力が抜け、ずるりと床に崩れ落ちる。卓の杯が倒れ、琥珀色の酒が床に広がる血と混じり合った。玉蓮は表情一つ変えず、その手に握られた匕首をゆっくりと引き抜く。切っ先から滴り落ちる鮮血が、月明かりに濡れた。
かつて、崔瑾とともに穏やかな時を過ごした玉蓮の寝室に、濃厚な死の匂いが充満する。だが不思議と、不快ではなかった。その匂いが、五感を、そして意識を、極限まで研ぎ澄ませていく。
ふと、脳裏をよぎったのは、遥か昔の、後宮の冷たい石の床の感触。
「……返す番だ。蜘蛛の巣の主へ」
玉蓮は血濡れた刃を、月にかざした。




