百十一話 勝利の祝杯
◇◇◇ 崔瑾 ◇◇◇
ぽたり、ぽたり――。遠い雨の音が、石壁の奥で細く鳴っていた。重い金属音が響き、牢獄の扉が開く。湿った闇の中に現れたのは、闇に溶けるような鈍い緑青色の衣をまとった一人の老宦官だった。
「崔瑾殿」
ゆっくりとその頭が下がり、ふわりと能面のような穏やかな笑みが宦官の顔に宿った。
「お調べ……ご苦労にございます。ご安心を。今夜のうちに記録・写しは全て改められます。夜明けには皆『相違なし』で揃いましょう。不審な写しがあれば、これより徹底的に探させ処分いたしますゆえ」
その皺だらけの手には、一つの白磁の杯。
「……賜盃にございます」
宦官の袖口から、伽羅の香がかすかに漂った。その香りと、抑揚のない声が告げた一言に、崔瑾は頷く。
「……やはり太后、あなたか」
唇から漏れた声には、もはや驚きも絶望もなかった。全ての線が繋がり、自らが描いた終着点に至った者の、澄み渡るような諦観だけがあった。
宦官は感情を削ぎ落とした声で言葉を発する。主の言葉を再生する、精巧な人形のように。
「『見事であった、崔瑾』」
「『白楊の獅子を討った、そなたの正義は称えよう』」
「『だが、そなたの愛はあまりにも愚かだった』」
宦官の声が、石壁に反響する。
「『脅威は消えた。盤の上に、もはや、そなたは要らぬ。見えぬはずの真実に手を伸ばした英雄には、静かな最期を賜れ』と。……有り難き、温情にございます」
宦官はそう締めくくると、もう一度、恭しく杯を目の前に差し出した。揺れる液体が、蝋燭の火を映して妖しく光る。
この国の正義を信じ、民を守ろうとしたその志さえもが。あの醜悪な女の壮大な盤の上だったのだろうか。
(——いや、違う)
盤上の石は、殺されるためだけにあるのではない。脳裏に、赫燕の最期の問いが蘇る。
『お前の正義は、何を守った?』
守ったもの。それは、ある。正義も、民も、妻も。自分は確かに守るべきものを選んできた。
(そしてそれは、あの男が、「私が選ぶ」と確信していた道だ)
だから、今、ここに己がいて、毒杯が目の前にある。死は、終わりではない。奴らが気づかぬ間に打った、盤上最後の一手。
——ズズ、ズズズ……
その時。微かな、しかし地底から這い上がるような振動が、石床を通して伝わってきた。雷ではない。地震でもない。それは、西から押し寄せる、怒れる軍勢の足音。
「……ふ」
崔瑾は、その音を聞き、今度はゆったりと歓喜を込めて微笑んだ。
「な、何がおかしいのです」
怪訝そうに眉をひそめる宦官に、崔瑾は何も言葉を返すことなく、迷いなく、その杯を手に取った。
「……勝利に、祝杯を」
白磁の冷たさを唇にあて、一息にあおる。喉を灼く熱さが、命を蝕む苦みと共に落ちていく。
視界が揺らぐ。指先の痺れが肘へと上ってくる。薄れゆく意識の中で、最後に瞳に映ったのは、ただ一人。妻、玉蓮の、あのあまりにも美しい貌。
かつて戦場で見た時のように、闇の中でなお気高く咲き誇る白菊のように。あまりにも清らかで、あまりにも可憐に、この世のものとは思えないほどの輝きを放って微笑んでいた。
(——どうか、生きてください)
指から力が抜け、カラン、と乾いた音が遠くで響いた気がした。意識は、降り続く雨の音と共に、深い闇へと溶けていった。




