百十話 桃の木の真実 1
◇◇◇
主を失った屋敷は、嘘のように静かだった。後宮に連行されるはずだった玉蓮は、太后による禁足の命で、崔瑾の屋敷に縛られたまま。多くの使用人たちも捕縛され、屋敷はまるで生き物の気配が消え失せたかのように、死の静寂に包まれていた。一人残った翠花が、蒼白な顔をして玉蓮の前に膝をつく。
「旦那様が……獄に入れられたと」
喉の奥が引きつり、微かな音が漏れた。心の臓が早鐘を打ち、唇を噛み締めると、鉄錆のような血の味が口内に広がる。あの日、姉の死の報せを聞いた時と同じ味。
『生きろ』
二人の男の声が脳裏で重なる。玉蓮は、その声に導かれるように、懐から二つの硬い感触を取り出した。紫水晶と匕首。過去を照らす光と未来を切り拓く刃。その二つを抱きしめたとき、胸の中の昏い炎が轟々と燃え盛った。その熱が、玉蓮の記憶から崔瑾の声を鮮烈に蘇らせる。彼が捕縛される寸前、兵士たちの前で放ったあの一言。
『——私の想いは、あの桃の木の下で告げた通りです』
あれは、何だったのか。崔瑾という男は、どこまでも優しく誠実な男だ。嘘は言わない。だが、あのような緊迫した場面で、想いを告げるためだけに口を開くような、感傷的な男でもない。あれは、崔瑾が盤上に遺した、最後の「一手」だ。
『糸口を探す貴女を……』
ハッとして、玉蓮は目を見開いた。「想い」がある場所。それは、比喩ではない。物理的な場所を示している。
「翠花」
玉蓮は立ち上がる。その瞳には、もはや涙の気配はない。
「旦那様の……書斎へ参ります」
「旦那様の?」
「今、この屋敷は外から閉ざされているだけ。まだ周礼は来ていない。王も、わたくしをどう料理するか、太后の沙汰を待っているはず。動くなら、今しかありません」
「御意」
書斎は、主が突然連行されたとは思えぬほど、整然としていた。そこにあるはずの墨の匂いが、ひどく薄く感じられる。玉蓮は迷いなく、書斎の奥、庭に面した窓を開け放った。湿った夜気が部屋に流れ込む。目の前には、あの桃の木が闇の中に立っていた。
「翠花、わたくしが戻るまで、ここで見張りを。誰かが来たら、すぐに知らせなさい」
「奥様、お一人では」
「大丈夫です」
玉蓮は、外套も羽織らず、一人、庭へと降り立った。塀の外には、兵士たちの影が微かに動いている。だが、彼らの意識は「屋敷からの脱走」にのみ向けられており、庭の中央にある木の下で、大都督の正室が泥に塗れている姿などは想像もしないだろう。
桃の木の、根元。
玉蓮は、雨上がりの湿った冷たい土に、躊躇なく手を突っ込んだ。爪の間に土が入り込み、感覚がなくなるまで掘り進める。
どれくらいそうしていただろうか。根の間に隠れるようにして、敷石の一つが、微かに動く感触があった。爪が割れるのも構わず、石の隙間に指をねじ込み、渾身の力で持ち上げる。敷石の下には、油紙で幾重にも厳重に包まれた、一つの桐の箱が埋められていた。
(旦那様……あなたは、この結末を)
息を殺し、箱を抱えて書斎に戻る。翠花が慌てて窓を閉め、内側から鍵をかけた。泥だらけの手で、震える指で、油紙を解く。桐の箱を開けた瞬間、玉蓮は、息を呑んだ。
そこにあったのは、膨大な量の書簡。
周礼が軍需物資を横流ししていた帳簿。太后が朝廷の要職を私物化し、国庫を横領していた証拠。そして、崔瑾が独自に調査させていたであろう、数々の密告書。
偽造された璽の存在を示す証拠も。さらには、前王后が亡くなられた当時の太医局の記録と、そして骸が運ばれた先を示す紙片まで。
全てが、崔瑾が積み上げてきた「正義」を雄弁に物語っていた。




