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闇を抱く白菊 —天命の盤— 復讐姫は、殺戮将軍の腕の中で咲き誇る。  作者: アリスの鏡
第十四章 蛇の讒言(ざんげん)、蜘蛛の罠
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百九話 英雄の背中 2

 崔瑾は、されるがままだった。どこか遠くを見つめる静かな瞳があるだけ。まるで、この結末を最初から予期していたかのように。


「……申し訳、ありません」


 連行される寸前、一度だけ振り返った彼の唇が、音もなく動いた。


 玄済(げんさい)国が誇る最高の英雄が、一人の罪人として、泥にまみれ、引き立てられていく。兵士たちのざわめきが、水の中のように遠く聞こえる。玉蓮の瞳からは涙が溢れ出し、降りしきる雨と混じり合って頬を伝っていく。


「だん、なさま……」


 弱々しい声。聞こえるはずがない。届くはずがない。だが、崔瑾はぴたりとその歩みを止めた。


 次の瞬間。彼を拘束していた屈強な兵たちが、木の葉のように弾き飛ばされた。


 どよめきが走る中、崔瑾は風のように玉蓮の元へ駆け戻る。一点の迷いもなく彼女を捉えたその眼差し。彼は玉蓮の前に膝をつくと、その濡れた頬を泥と傷だらけの手でそっと包み込んだ。指先から伝わる温かさが、凍えた肌に染み渡る。


「旦那様……」


 ぼやけていく視界の先。そこにはもう、荒れ狂うような狂気はない。どこまでも澄んだ穏やかな森の湖が、玉蓮を映している。それは、初めて会ったあの日の、彼が本来持っていた瞳。


「行ってはなりませんッ」


「玉蓮殿」


「行けばッ……必ず、殺されます。どうか……わたくしも剣を持って戦いますから!」


 玉蓮は、崔瑾の腕に(すが)り付いた。だが、崔瑾は首を横に振る。


「それは、できません。今ここで剣を抜けば、屋敷の者も、領の民も、全員が逆賊として殺されます。そしてあなたも……決して無事ではいられない」


 彼の声が、雨音を縫って穏やかに響く。


「ならば、なぜ! なぜ、戻られたのです! 旦那様であれば、このような……このような稚拙(ちせつ)な罠などお見通しでしょう!」


 玉蓮はその胸に顔を(うず)めて泣きじゃくった。崔瑾の大きな手が、濡れた髪を優しく撫でる。


「ええ、わかっていました……ですが、私がここに来なければ、あなたを失ってしまう」


 彼の瞳の奥に揺らめく光があまりにも優しくて、玉蓮は息ができなかった。そして、崔瑾は、少しだけ寂しそうに、そして愛おしげに微笑(ほほえ)んだ。


「……生きて、ください。貴女(あなた)は、強く、生きていくのです」


 その一言が鼓膜を打った瞬間、脳裏に、遠い日の別の男の声が重なって響いた。



『——生きろ』



 二人の男が、最後に託した、たった一つの願い。その抗いようのない重さに、膝の力が抜ける。崩れ落ちそうになる体を、崔瑾の腕がしっかりと支え、抱き寄せた。


「玉蓮殿」


 耳元で、祈りのような声がする。


「私の想いは、あの桃の木の下で告げた通りです……それだけが、私の真実です」


「……桃の、木……」


 玉蓮は崔瑾の顔を見上げた。温かい体温が、皮膚から、心の奥底まで染み渡っていく。きっと、もう二度と触れられない。もう二度と戻らない。玉蓮は全身の震えを止めることができなかった。


 再び兵士たちが、恐る恐る距離を詰めてくる。崔瑾は立ち上がると、一切の抵抗を見せることなく、まるで運命を受け入れるかのように、自ら両手を差し出した。そして、一度だけ玉蓮の顔を見ると、次の瞬間には顔を上げ、凛とした表情で兵士たちに向き直った。


「私は、従います。他の者には手出し無用」


 その口から発せられたのは、抑揚のない、しかし王のごとき力強い一言。兵士たちの間を通り抜け、玉蓮の心に深く響く。


「行きましょう」


 兵士たちは、崔瑾の威厳に圧倒されながらも、その言葉に従うようにして彼を連行していく。降りしきる雨が、彼が残していった温もりを容赦なく洗い流していく。


 遠ざかる崔瑾の背中。それは、処断へ向かう罪人のものではなく、真の英雄の背中だった。

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