百六話 奪われる白菊 2
最高武官である大都督。その正室を、夫の不在時に連れ出す。それは略奪に等しい行為だ。今、まさにあり得ることのない力が働いている。
「——わたくしは、大都督・崔瑾様の正室。お許しなく、外出はできまぬ」
玉蓮は、己の動揺をねじ伏せ、毅然と言い放った。だが。
「否。王命は絶対です」
宦官は一歩、足を踏み出した。
「どうぞ、参りましょう。白楊国公主、玉蓮様」
宦官の言葉が、玉蓮の脳裏に稲妻のように走った。
(白楊国、公主——!?)
玉蓮がこの国に嫁ぐ前の身分。正式な場において、普段は決して口にされることのないその呼称。それをこの場で告げる意味は、一つ。もはや「崔瑾に守られた妻」ではなく、「戦利品である姫」として、王命の前に立たされているのだという宣告。
「っ——!」
逃れる術はない。姉が、かつて、そう呼ばれて贈られたように。今、自分も、あの男の元へ。視界が白く点滅する。拒絶すれば、この場で強引に連れ去られるだけ。そうなれば、屋敷の者たちにも害が及ぶ。あるいは、帰ってきた崔瑾が、その惨状を見て暴発するかもしれない。それだけは、避けなければ。
ここで取り乱しては思う壺。震える膝を叱咤し、宦官を鋭く見据えた。
「わかりました。参りましょう。ですが、このままの姿で、大王様と太后様の御前に出るわけには参りません。礼節を欠かぬよう、身支度を整える時間を頂きます」
宦官は眉をひそめる様子もなく頷く。
「……早急にお願いいたします」
「ええ」
玉蓮は短く答え、息を整えた。そして、懐の奥にある紫水晶を、一度だけ強く握りしめる。
「翠花、支度を。侍女たちを急ぎ集めなさい」
「は、はい……!」
慌てて動こうとする翠花を、玉蓮は強い視線で制した。
「王の御前です——『深紫に白菊』の刺繍の外套を」
その言葉に、翠花の動きが微かに止まる。彼女の瞳の光が強くなった。玉蓮の持ち物に、白菊の刺繍のものは数多くある。だが、深紫に白菊は特別な時だけのもの。
翠花の顔色が、恐怖から決意へと変わる。主の意図を——悟ったのだ。
「承知しました」
翠花が奥の部屋へと走ると同時、宦官が部屋の外に出る。玉蓮は鏡の前に立った。
すぐに一枚の厚手の外套を手にして彼女が戻ってくる。深紫の上質な布地。その内側の隠し嚢には、ずしりとした重みがあるはずだ。
「奥様、こちらでよろしいでしょうか」
玉蓮は差し出された衣に手を伸ばした。硬い陶器の感触が、布越しに伝わる。
近づいた翠花に、耳元で小さく声を落とす。
「旦那様に伝えなさい——後宮へ参ります」
「奥様」
「決して手を出されぬように、と」
翠花の指が小刻みに揺れている。そこに手を添えて、少しだけ力を込める。
「頼みます」
翠花は深く頭を下げた。
「御意。必ず……!」
玉蓮は、翠花に向かって視線だけで頷くと、前を見て一歩を踏み出した。どこまでも真っ直ぐに背筋を伸ばして。




