百二話 虚ろな凱旋(がいせん)
◇◇◇ 崔瑾 ◇◇◇
赫燕討伐の報は、瞬く間に玄済国中を駆け巡った。長きにわたる恐怖からの解放に、民衆は狂喜乱舞し、都は未だかつてない歓喜に沸き返った。昼夜を問わず、祝杯をあげる声、勝利を讃える歌声が響き渡る。恐怖で凍りついていた人々の笑顔が戻り、特に子供たちの高らかな笑い声は、平和がようやく訪れたことを雄弁に物語っていた。
武勇と知略をもって赫燕を討ち果たした崔瑾の名は、一躍、国の守護神として轟き渡った。宮廷の大臣たちは競ってその偉業を記録し、「これぞ天命」と賛辞を惜しまなかった。
だが、季節は巡る。熱狂の波も永遠には続かない。大通りから喧騒が遠ざかり、都が日常を取り戻し始めた頃。呂北にある崔瑾の広大な屋敷の庭だけは、季節から取り残されたような静寂に包まれていた。
あの雨の日から季節は巡り、初夏の陽光の下、庭の一角にある桃の木は濃い緑の葉を茂らせ、そこに薄紅色の幼い実をつけ始めていた。力強い緑が、微風に乗って揺れている。
その桃の木の下、設えられた簡素な卓を囲み、小さな宴が開かれていた。しかし、そこに以前のような、気兼ねのない朗らかな笑い声や、高揚した語らいはない。場を支配しているのは、首を絞められるような、張り詰めた沈黙だけ。
パチリ——。
硬質な音が、静まり返った庭に鋭く響く。黒と白の碁石が、盤上に打ち付けられる音だけが、二人の会話だった。盤を挟んで向き合うのは、玉蓮。その周りを、馬斗琉や阿扇といった側近たちが、石像のように控えている。英雄を讃える外の華やかさとは裏腹に、この庭には、勝利の後に訪れた、言葉にできない重い影が落ちていた。
玉蓮が、白磁の碁笥に手を伸ばした、その一瞬。音もなく、一枚の桃の葉がひらりと舞い落ち、彼女の白く細い指先に触れるか触れないかのところで、盤の縁に留まった。
玉蓮の手が、ぴたりと止まる。
彼女の視線は、その葉の元を辿るようにして、ゆっくりと虚空へと向けられた。盤上ではない。風にそよぐ桃の枝葉の、さらにその向こう側。遥か遠い、西の方角。
その瞳に、物憂げな、けれど焦がれるような熱が揺らめく。無意識なのだろう、彼女の手が、胸元にある衣の上——紫水晶が眠る場所へと、そっと添えられた。
「……玉蓮殿」
崔瑾の呼びかけに、玉蓮は、はっと視線を盤に戻す。西の空に向けられていた熱が、瞬時に氷点下へと冷めていく。
「……今、何を、考えておられた」
玉蓮は、何も答えなかった。唇の端を微かに持ち上げ、人形のような微笑みを浮かべるだけ。崔瑾は、その意味深な、しかし何も語らぬ表情の奥に、あの男の影がゆらりと立ったのを確かに見た。
崔瑾の指先に挟まれた、黒い石。盤上には、勝利への道筋がはっきりと見えている。ここに打てば、終わる。ここに打てば、勝てる。——だが。指は、空中で凍りついたまま動かない。石を握り込んだまま、ゆっくりと拳を下ろした。左手の爪が皮膚に食い込み、血が滲む。痛みだけが、今の彼を繋ぎ止める唯一の感覚だった。
「……失礼する」
崔瑾は低い声で告げると、盤と玉蓮から逃げるように視線を逸らし、立ち上がった。その場に一秒でも長くいることを拒否するように、踵を返すなり、足早に屋敷の奥へと姿を消した。




