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九十八話 河伯の祠 3

「崔家の、方なのですね……」


「ええ。夫は、崔瑾(さいきん)と申します」


 (ほう)の目から、涙が、とめどなく溢れ出す。そして、彼女は震える声で語り始めた。


「私めは、元・夏国(かこく)の後宮侍女、名を芳梅(ほうばい)と申します。国が滅亡した後、奴婢として玄済(げんさい)王后(おうこう)様の宮に贈られました」


王后(おうこう)……太后(たいこう)様の?」


「……いいえ。先の王后(おうこう)様、大王の実母でいらっしゃる、崔王后(さいおうこう)様です」


(さい)……」


 心の臓が早鐘を打つ。崔王后。崔瑾の叔母にあたる女性だ。


王后(おうこう)様はとても優しい方でした。夏国(かこく)の奴婢である私にも、人間として接してくださいました」


 芳梅(ほうばい)の言葉が途切れ、底知れぬ静寂が降りる。崔王后の名は、玉蓮も調べていた。だが、残された記録には「火災により逝去」という簡潔な一文があるのみ。太后が幼い王子を火の中から救い出した美談の影に、完全に埋もれてしまっている存在だ。


太后(たいこう)様が、王后(おうこう)になられた経緯をご存じですか?」


 芳梅(ほうばい)の突然の問いかけに、玉蓮はわずかに眉根を寄せた。


「……燃え盛る宮から幼い王子、今の大王をお救いになったと」


 芳梅(ほうばい)が胸の上で両手を強く握りしめている。骨が浮き出るほどに力が込められ、爪先が白く鬱血(うっけつ)していく。


 やがて、芳梅はゆっくりと首を横に振る。


「……きっと、私めの命もあと僅か。崔家の奥方様と出会ったのも、亡き王后様のお導きでしょう。この期に及んで、どうしても打ち明けたい真実があるのです」


「真実?」


「あの火災は、自然発生したものではありません。確かに落雷による火災はありふれたこと。ですが……あの日、崔王后様は、火の手が上がる前、燃え盛る宮の中で……ただ、眠っていらっしゃいました」


「え……?」


「逃げ惑うこともなく、苦しむこともなく。側仕えの侍女達も同様です。まるで、人形のように」


 芳梅(ほうばい)は、地獄の光景を今なお幻視しているかのように虚空(きょくう)を凝視した。


「毒か、あるいは強力な麻痺薬か……」


 玉蓮の呼吸が止まる。言葉が、鉛の塊となって胸の奥底へと沈んでいく。


「私は、別の部屋に王子といたのです。泣き叫ぶ王子を抱えて走りました。あともう少しで外に出られるというところで、巨大な(はり)が落ちてきて……意識が飛びかけました。その時です。炎の向こうから現れたのが——当時の、(ふう)貴妃(きひ)様でした」


 芳梅(ほうばい)の体がガタガタと震えだす。恐怖が、二十年の時を超えて彼女を支配している。


「貴妃様は……冷ややかな笑みを浮かべて、私から気絶した王子を奪い取り、ただ一言、こう仰ったのです。……『よくやった』と」


 ヒュッ、カヒュッ、と喘鳴(ぜいめい)が響く。芳梅(ほうばい)は、千切れそうな息を繋ぎながら語り続けた。

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