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十話 獣の頭

 それまで、天幕の中を微かに揺らめいていた油灯(ゆとう)の炎が、ぴたりと動きを止める。(くすぶ)っていた香炉(こうろ)の煙が、まるで琥珀の中に閉じ込められたかのように、空中で静止する。


 音も、光も、空気の流れさえも、全てが、男のその深淵(しんえん)のような瞳に吸い込まれていく。玉蓮は、息ができなかった。まるで、深い水の底に引きずり込まれたかのように。


 獲物を前にした獣のように、愉悦と残酷さを同居させた瞳の奥に宿る闇が、思考を奪おうとする。玉蓮は、どうにか拳を握りしめて、自分の手のひらに爪を立てる。そして、一歩踏み出し、深い恭敬(きょうけい)を込めるためにその場に(ひざまず)いた。


赫燕(かくえん)将軍。玉蓮、参上いたしました」


 玉蓮は顔を伏せ、男に聞こえることのないように息を短く吐く。それを知ってか知らずか、男はふっと鼻で笑うと、豪奢(ごうしゃ)な椅子に深く身をもたせかけ、ゆっくりと顎を上げた。その視線は、まるで獲物を吟味するように、玉蓮を見下ろしている。


「将軍、じゃねえ」


 低く、しかし明確な声が、静寂に包まれた空間に響き渡り、玉蓮の心の臓が微かに跳ねた。


 赫燕(かくえん)は椅子から立ち上がると、ゆっくりとした動作で玉蓮に歩み寄る。獣のようにしなやかに、足音一つ立てずに近づいてくるその気配に、玉蓮は無意識に息を詰めた。


「ここではお頭だ、姫さん。国なんぞに忠誠を誓った覚えはねえからな」


 彼の足が玉蓮の目の前で止まり、その影が、彼女の顔に深く落ちた。玉蓮は顔を上げることもできず、ただその言葉を静かに待つだけ。


劉義(りゅうぎ)のところの、出来のいいお人形さんか」


 その言葉に、玉蓮が鋭く睨み返そうとした、刹那。ガッ、と強い力で顎を掴まれた。声を上げる間もない。無骨で、剣ダコだらけの指が、素肌に食い込むようにして顔を強引に上向かせる。目の前に迫る、陶磁器のように白く艶めかしい美貌だが、そこから発せられるのは、獲物の喉笛を狙う猛獣の殺気。


 獣じみた瞳が、玉蓮の顔から首筋、そして全身を舐めていく。鼻腔の奥に、あの甘く凍てつく伽羅(きゃら)の香が再び立ち上がる。まるでこの男そのものが、香の発生源であるかのように。


「武芸も知略も悪くない、とな」


「……お頭の、お役に立てるよう、尽力いたします」


 揺るがぬ声で返した玉蓮の瞳を、赫燕(かくえん)は面白そうに覗き込み、喉の奥でクツリと笑った。


玄済(げんさい)国に売り飛ばされ、壊された姉のようにならねばいいがな」


 ——ブワリと、脳髄が沸騰する。玉蓮は、顎を掴まれたまま、目の前の美しい悪魔を射殺すような眼差しで睨みつけた。息が荒くなり、奥歯がギリリと鳴る。


(……姉上の何がわかる!)


 男の口の端が、三日月のように吊り上がる。


「玉蓮、か」


 赫燕(かくえん)の指先が、玉蓮の頬をなぞった瞬間、背筋が勝手に震えた。逃げ出したいのに、膝は地に縫い付けられたまま。


「いいだろう。朱飛(しゅひ)に預ける」


 赫燕(かくえん)はそう言うと、玉蓮の耳元へと唇を寄せた。触れるか触れないかの距離。甘く凍てつく伽羅(きゃら)の香りが、玉蓮の肺を強引に侵食する。


「……だが、覚えておけ」


 鼓膜を震わせる、低く、重い響き。


「お前の首輪は、俺が持つ」


 熱い吐息が、烙印のように耳に残った。


 彼はそれだけを告げると、満足したように玉蓮から離れ、天幕の外へと出て行った。闇に溶け込むように消えていくその背中は、この世の全てのしがらみを拒絶し、己の道をただひたすらに突き進む、孤高の獣のようだった。

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