九話 伽羅の香 2
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たどり着いた赫燕の天幕。それは、他のどの天幕よりもひときわ大きく、禍々しい威圧感を放っている。分厚い獣の皮でできた入り口の幕が、風を孕んで、鈍い音を立てて揺れている。
「お頭、失礼します。公主が来ました」
朱飛の声が響くも、中からは何も声が返ってこない。朱飛を見上げると、ただその静かな瞳で見つめ返され、そして獣皮の幕が上げられると同時に、視線で入れと促される。
中へと足を踏み入れると、まず鼻腔を刺激するのは、なめし革の濃厚な匂いと、それに決して混じり合うことのない、一つの気高い香り。
——伽羅。
甘い香が鼻をかすめた瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。血と鉄に満ちたこの巣の中で、ひどく場違いで、かえって寒気を誘う。壁には、戦場で奪いとったであろう国の旗が、何の敬意もなく無造作に飾られている。
玉蓮は、無意識に喉をゴクリと鳴らした。
天幕の中央。薄暗がりの中で、男が一人、巨大な地図を覗き込んでいた。紫紺の衣を纏ったその横顔は、ぞっとするほどに艶めかしい。男の周囲だけ空気が研ぎ澄まされ、張り詰めている。わずかに開かれた唇から漏れる息遣いすら、凍えるように冷たい。
男は玉蓮の存在に気づいているのかいないのか、ただひたすらに地図上の戦線に意識を集中させている。
天幕のわずかな油灯の光が、男の首元で鈍く輝く、二つの紫の石に吸い込まれていく。そして、彼の足元に立てかけられている大剣の柄頭にも、男の首元で揺れるものと瓜二つの、深い紫の石が嵌め込まれていた。
無頼漢と言われるような男にはおよそ不釣り合いなほど、洗練された意匠が施されたそれらは、光を貪るように吸い込んで妖しく揺らめき、目の前の男と同様に異質なものとして、この天幕を支配するように存在している。
一秒が、一刻に感じるほどの、重い沈黙。玉蓮は、その気高い紫の輝きから目が離せずに、ただそれを見つめていた。やがて、まるで思い出したかのように、男が顔も上げずに低い声で告げる。
「——来たか」
玉蓮の存在など、取るに足らぬとでも言うように響く、低い声。肺がうまく動かず、喉の奥で息がつかえる。心の臓が、肋の内側で不規則に暴れ出す。息を吸うことさえ、この男の前では許されないとでも言われているように。
そしてようやく、男はゆっくりと顔を上げた。
——赫燕。
その名は、玉蓮の唇で音もなく紡がれる。




