九十二話 紫の炎
◇◇◇ 崔瑾 ◇◇◇
側近たちが退出した後。書斎には、再び重い静寂が訪れた。崔瑾は一人、地図を睨みつける。その指先が、赫燕軍の進軍路を、何かを潰すかのように強くなぞる。
「わかっている……」
声にならない声が、喉の奥で響いた。馬斗琉たちの言うことは、正しい。この執着が、判断を狂わせている。理性が頭の片隅で、最後の警鐘を鳴らしているのだ。
嫉妬。独占欲。そして、恐怖。なんと醜い感情か。鏡を見れば、そこに映るのは、もはや国を憂う人間の顔ではない。ただ、狂って執着している、哀れな男がいる。
崔瑾は、その悍ましい己の姿から逃れるかのように、一度、強く目を閉じた。かつて、誰よりも理想を信じていたこの手が、今や己の欲望のために震えている。
「それでも止められぬ」
再び目を開いた時、彼の心は、一つの決意に満たされていた。これは、私情などでは断じてないと自分に言い聞かせる。
——そうだ。これは、私情などでは断じてない。
あの、人の道を外れた怪物を討つこと。それこそが、この国を救う、絶対の正義。そして、その正義の先にこそ、民と、我ら、そして彼女の、魂の平穏と本当の解放があるのだ。
◇◇◇
怒涛の勢いで攻め上がる白楊軍の猛威を前に、玄済国の朝議の場は、鉛のように重苦しい沈黙に包まれていた。中央に置かれた軍事用の大地図には、次々と白楊国の支配下に落ちていく領土が、無慈悲なまでに赤く塗りつぶされていく。その赤い跡は、日を追うごとに、玄済国の心臓部へと迫りつつある。
長く、耐え難い沈黙は、誰もが息を潜める中で続く。そして、やがて、その張り詰めた静寂を切り裂くように、玉座に座す王の、底冷えのする声が響き渡る。
「——崔瑾。大都督の任にありながら、白楊の暴挙を止められぬというこの大失態。その責は、お前の首一つで事足りるものではないと、わかっておるのか」
崔瑾は顔を伏せたまま、口を開く。
「申し訳ございませぬ……」
その言葉以外に、吐き出すべき言葉がなかった。本来、経験豊富で有能な将が就くべき前線指揮官の地位に、王と周礼により、未熟な者が据えられていたのだ。しかし、崔瑾は、大都督という最高武官の地位にありながら、その圧力を覆すことができなかった。それが、この惨憺たる敗戦を招いた直接的な要因だ。
敗戦の責は、確かに己にある。己の無力さが、経験の浅い将を無謀な前線に送り込み、多くの玄済国の兵士たちが、赫燕軍の苛烈な攻撃の前に、無惨に散っていくという結果を招いたのだから。
「お前の派閥の将であらずとも、その責はお前にある。お前が指揮をとれずとも、全ての責任はお前にあるのだ」
「は、弁解の余地もございませぬ」
崔瑾の脳裏には、戦場で命を落とした数万の兵士たちの顔が、走馬灯のように次々と浮かび上がっては消えていく。そして絶望に満ちた叫びが、その耳にはっきりと、今まさにこの場に響いているかのように聞こえる。
「若年であろうと、玄済国・大都督の地位にあるお前は、全ての責を負う存在。民と土地が奪われれば、我らに入る金が減る。王たる私の安寧を脅かしているのだぞ」
王の声は、もはや低い唸りのように響く。玉座に深く沈み込んだ体躯は、それでも有無を言わせぬ威圧感を放っている。その瞳は、国の存亡よりも、自身の権力と享楽が脅かされることへの怒りに燃えている。
崔瑾は、その視線を受け止めながら、顔の前で合わせた拳に力を入れた。爪が手のひらに食い込み、痛みが走る。
「さて、そなたは、この未曽有の事態を招いた責任を、いったいどう取るつもりか」
突き放すような問いかけに、崔瑾はゆっくりと顔を上げ、王に視線を向ける。
「大王様、どうか私に最後の機会を。この崔瑾を、どうか総大将に任じてください。私の全霊を賭けて、必ずや大陸最強の騎馬隊を擁する赫燕軍を討ち滅ぼし、この玄済の地と、尊き民の命を、最後まで守り抜いてみせましょう」
自らの命運をも賭けた、有無を言わせぬ断言。だが、この決意に満ちた言葉は、逆に王の表情をさらに硬くさせる。王は、崔瑾の視線の先で、苦々しさに耐えるように顔を歪めた。
「……結局は、そなたの力に頼らざるを得ぬとは。この窮地、全てがそなたの盤の上か。王を手玉にとるとは、そなたは、とんだ臣下だ!」
王の怒りと屈辱に満ちた声が玉座の間に響き渡る。崔瑾は、その痛烈な皮肉を、頭を下げることで受け止めた。
この戦の行方が、玄済国の未来を左右する。崔瑾の胸中には、すでに戦の青写真が描かれていた。この盤を制し、必ずや玄済国に勝利をもたらす。その固い決意が、燃え盛っている。
「そなたの首を刎ねても、獣の暴威は止まらぬ。この焦土が証だ。白楊は、あの男ひとりで立っている。母上は『赫燕さえ討てば終わる』と仰せだ。だが、私はあれが欲しい——生けて連れてこい。今度こそ、我が物とする」
崔瑾はその言葉に一瞬、眉を顰めそうになったが、すぐに表情を戻す。
「大王、赫燕は敵・総大将。死闘は避けられませぬ」
崔瑾は冷静に、しかし毅然と諫言を試みたが、目の前の王の瞳は、欲望に濡れているように揺らめいている。
「白楊の美しき獣を我が手中におさめてやる。屍でも良い! よいな、崔瑾。赫燕に勝てねば、お前の陣営の者は皆、斬首だ」
「は、必ず勝利を……」
崔瑾は、頭を垂れた。その声は、朝議の場の重苦しい空気に吸い込まれていく。
やがて、王は、ふう、と一息を吐いて座にもたれ直した。
「出兵の前に、西苑および西外水門の警護に兵二万を回せ」
二万。その数字に、周囲に控えていた大臣たちから、小さくどよめきの声が上がる。ざわめきの中、一人の老いた大臣が尋ねた。
「祈雨の儀を、執り行われるのですか」
彼の言葉に、王はゆっくりと頷く。
「そうだ。長き日照りで民心が荒んでいる。天の助けを仰ぐ。明日より西苑・鵠池に宿り、潔斎は西外水門で。母上と私、大臣どもの妻妾が参加する」
王の言葉を聞いた崔瑾の、ぴくりと手が動いた。
「——崔瑾、そなたの白楊の華もな」
「ですが、妻は」
「祈雨は陰を強めねばならぬ。大都督の妻だけ外すわけにはいかぬ。愛する妻がいるのであれば、兵二万など易かろう。のう、崔瑾」
王の声が響く。
——二万。
喉元に、血の味が広がった。対・赫燕戦のただでさえ足りぬ兵力を、儀式に割くというか。だが、ここで「否」と答えれば、総大将の任は周礼の息がかかった、あの無能な男たちの手に渡る。そうなれば、国は確実に滅ぶ。呑むしかない。この毒の杯を。
そして、何よりも玉蓮を守らねば。
「——精鋭を、送りまする」
己の胸に宿る炎が、その色を変えていく。もはや、国を憂う清く青い炎ではない。どす黒い赤き炎が、その青を内側から侵し、二つは混じり合って、禍々しい深い紫へと変わっていく。




