九十話 蜘蛛の巣
◇◇◇ 崔瑾 ◇◇◇
崔瑾が屋敷に戻り、一人になった時、両肩に見えない重圧がのしかかるように腕が重くなった。それでも、それを振り切るようにして、書斎の壁一面を覆う巨大な軍事地図の前に立つ。赫燕の進軍路を、指でなぞる。
その動きをどう読み解くか。どう打ち破るか。それだけを考えていたはずだった。だが、彼の脳裏に焼き付いて離れないのは、周礼のあの蛇のような瞳。そして、彼の衣から漂った香の匂い。
ふと、彼は傍らの碁笥から黒い石をいくつか掴み取った。そして、地図の上に置き始める。
——数年前の赫燕軍との戦。無能な張将軍の配置、不可解な兵站の滞り。赫燕軍への大敗を喫したあの場所。
——そして、周礼の一族が横領した武具の横流し。
一つ、また一つと硬質な音を立てて黒い石が置かれていく。赫燕の進軍路とは全く別に、この玄済国の内側で張り巡らされた、もう一つの戦線。その全ての黒い石が、一つの中へと向かって伸びている。後宮の最も奥深く。決して表には出てこない、あの影へと。
「太后」
その名を呟いた瞬間、崔瑾の背筋を氷のような悪寒が駆け上った。自分が、そして兵士たちが戦場で命を賭して守ろうとしているこの国そのものが、すでに内側から最も悍ましい蜘蛛の巣に喰い尽くされているのだと。
その、あまりにも巨大な蜘蛛の巣の全貌を改めて意識した瞬間、頭で描いていた盤面が音もなく崩れ落ちていく。正義とは。守るべきものとは。
「——駄目だ」
今ここでその疑問の前に立ち止まれば、思考を止めてしまえば、赫燕に全てを食い尽くされる。崔瑾は振り切るように拳を握り締め、その手のひらに爪を立てた。
内から崩壊しそうな国。だが、苦戦を強いられている理由はそれだけではない。
赫燕軍のこの猛攻は、どう考えても常軌を逸している。大規模な白楊国の侵攻が国としての戦略であるのは確かであろう。
(だが、それでもこの鬼気迫る進撃はまるで何かを……そうだ、これは「何か」を欲している)
赫燕軍の進路の先、その喉元に迫られたのは、王都・呂北。あの、対の紫水晶。彼女のうなじを撫でた、あの見せつけるような仕草。そして、彼女の、西の空を見つめるあの物憂げな瞳。全てが、今、一つの答えを導き出す。
「まさか、あの男は……玉蓮殿を奪い返すために、これほどの焦土戦を仕掛けている、のか……?」
全身の血が一度、凍り付く。国一つを、焦土に変えてでも、一人の女を奪い返す。その、あまりにも巨大な執着への畏怖。
「そんな、ことが……そんな」
だが、次の瞬間、まるで灼けた鉄の杭が、胸の奥に打ち込まれたかのように、彼女のあの眼差しが脳裏に蘇った。あの男だけに向けられる、彼女の、あの魂ごと焦がれるような瞳が。
(思い違いではない。あの瞳を取り戻すために、赫燕は、この戦を仕掛けている——!)
崔瑾は、その場に崩れ落ちそうになるのをかろうじて堪えた。地図を握りしめる、その手がわなわなと震える。そして、崔瑾は立ち上がると、ほとんど叫ぶように、外に控える側近の名を呼んだ。
「馬斗琉と阿扇を呼べ! 今すぐにだ!」
すぐに、息を切らした二人が、書斎へと駆け込んでくる。
「崔瑾様、いかがなされましたか」
「馬斗琉、これより玉蓮殿の警護を倍に増やせ。屋敷の周囲の全ての門を固め、私の許しなく玉蓮殿を外に出すな。よいな!」
「はっ……! し、しかし、崔瑾様」
馬斗琉と阿扇は、言葉の意味を測りかねたのか、立ち尽くしている。崔瑾は、氷のような冷たい声で続けた。
「赫燕が、これほど無謀な進軍を続ける理由が、侵攻の他にあるやもしれん。万が一にも、敵の手がこの屋敷に……玉蓮殿に伸びることなどあってはならぬ!」
「崔瑾様……」




