八十八話 届かぬ慟哭(どうこく)
◇◇◇ 崔瑾 ◇◇◇
赫燕の猛攻に対し、玄済の重臣たちは狼狽し、連日、崔瑾に早急な対策を求めていた。彼らは日ごとに憔悴し、崔瑾の屋敷には焦燥と不安が渦巻いていった。
「赫燕め! 大規模な軍勢を率いてはいるが、他に主だった将軍は、白楊にはおらぬ!」
「そう、焦ることはない。白楊など、奴一人が要の国」
「左様。奴さえいなくなれば、白楊など首のない鶏も同然よ」
重臣たちの言葉に、崔瑾は胸の奥をざらつかせた。
(……果たして、そうか? あの男が、己の首一つに国を賭けるような戦い方をするだろうか。この猛攻の裏で、劉義や劉永の影が薄すぎるのが、どうにも解せぬ)
だが、その疑念を口にする間もなく、崔瑾を急かす声がまた響いた。
「いずれにしても、早く実力ある将軍を派遣せねば」
「大都督、どうされるのです」
その中心で、崔瑾は泰然自若としている。
「私より、王に進言いたしましょう」
崔瑾は重臣たちの嘆願を聞き入れ、毅然とした態度を崩さずに彼らを宥めた。
◆
しかし、王宮の一室に足を踏み入れた瞬間、崔瑾は、重い衣をもう一枚着せられたかのような、息苦しさを感じた。ここで交わされる言葉の全てが、戦場の現実から乖離した、空虚な響きしか持たないことを、知っていたからだ。
王宮の一室では、重臣たちを前に周礼が耳触りの良い言葉を並べ立てている。
「大王様は、この度の、赫燕の猛攻にも、決して臆してはおられぬ。むしろ、この機に、白楊軍を根絶やしにする好機と捉えておられるわ」
周礼の声は、まるで、中身の空っぽな壺を叩いたかのように、やけに、甲高く、そして空虚に響き渡る。大臣たちは周礼の言葉に頷き、安堵の表情を浮かべている。
しかし、崔瑾は違う。そのあまりに楽観的で、無責任な言葉に、崔瑾が顔を顰める。脳裏には、戦場の悲惨な光景が鮮明に焼き付いている。無数の兵士たちが血を流し、故郷を離れて戦い続けているのだ。
一方で、王宮の者たちは、空虚な言葉遊びに興じている。
「周礼殿」
喉から氷のような声が落ちる。
「お戯れは、そこまでにしていただきたい。今、この瞬間にも、南西の地では、民と兵が血を流している。その現実を見ようともせず、甘言を弄するのは、大王に侍る臣下の仕事ではありますまい」
周礼はいつもの甘ったるい笑みを崩さずにこちらを見ていて、何を思ったのか、満足げに口の端を吊り上げる。
「おや、これは、崔瑾殿。いささかお疲れのご様子ですな」
「迫る赫燕軍に対して、急ぎ対抗策を練っているのだ。そなたら文官は、戦場を——」
「幾日も寝ておらぬご様子」
崔瑾の言葉を遮るようにねっとりとした声が紡がれる。
「お疲れでしょうなぁ」
「大都督として当然のことです」
「さすがですな。ですが、貴殿ご自慢の白楊の姫君は、今頃、屋敷で一人、寂しく貴殿の帰りをお待ちかねでしょう」
周礼が一歩、崔瑾に近づいたその瞬間。ふわり、と。甘く、深い伽羅の匂い——後宮でも太后の間だけで焚かれる香りが漂った。一瞬、あの太后の面影と重なる。目の前の周礼がさらに蛇のような笑みを深めた。
「……もっとも、そのお寂しい夜もそう長くは続きますまい。戦が終われば、どんな形にしろ、姫君は月貌華と謳われるその美しい体を持て余す暇などないでしょうからな」
周礼の言葉が、的確に、魂に膿み続けていた傷口そのものを抉る。
脳裏で灼けつくように、記憶が悍ましい幻影へと変わる。
腕の中にいる玉蓮。その瞳が、自分ではない、どこか遠くへ向けられる。いや、違う。見ているのだ。あの、白楊の獣を。その唇が、微かに動く。自分の名ではない、あの男の名を、音もなく紡いでいる。己が抱いているはずの彼女の、その魂だけが、あの男に奪われていく。
崔瑾の頭の奥で、張り詰めていた何かが、ぷつり、と音を立てて切れた。
「——黙れ!」
雷鳴のような一喝と共に、崔瑾が傍らの卓を拳で叩き割った。凄まじい音と共に、木片が飛び散り、周囲にいる大臣たちから「ひい」と小さな悲鳴が聞こえた。
「国を憂い、民を思う者こそが、真にこの国を導くべきだ! 己の私欲に溺れる者が、高みに座す資格などない!」
自らの唇から溢れる、激しさを止められない。すべてを守るのだ。民も、兵も、そして——彼女も。
この衝動の果てに、たとえ、この身が滅びようとも、国と民、彼女の安寧があるのだから。いや、そうでなければ。そうであるはずだ。たとえ、結果として、王も太后も周礼までも守ってしまうのだとしても。それでも。
そう、信じる。信じ抜いてみせる。
◆
謁見が終わり、崔瑾は呂北の西門へと向かった。太陽は西の山並みに微かに傾き、空は茜に染まりはじめている。
城壁の上から、彼は眼下の往来を見やった。遠く、木材を積んだ牛車列が、油紙を掛けた荷を揺らしながら西外水門道へと折れていく。そこに肩に工具を担いだ職人たちが続き、通り過ぎた風に、削りたての木屑と、水を弾くための桐油の重い匂いが混じり合う。
きっと、西外水門の先に広がる深い葦原——霜牙の地一体では、その底なしの泥濘を隠すように、連日、板道を打つ音が続いているだろう。
耳の奥で木槌が三度、四度と鳴るような気がして、崔瑾は目蓋を下ろした。
目を開き、西門の先の広い土地を見渡せば、視線の端、北へ抜ける古道にも、点々と人影が揺れている。
全てを整えるのだ。己の信じる道を進むために。




