表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
153/214

八十八話 届かぬ慟哭(どうこく)

◇◇◇ 崔瑾(さいきん) ◇◇◇


 赫燕(かくえん)の猛攻に対し、玄済(げんさい)の重臣たちは狼狽し、連日、崔瑾(さいきん)に早急な対策を求めていた。彼らは日ごとに憔悴し、崔瑾の屋敷には焦燥と不安が渦巻いていった。


「赫燕め! 大規模な軍勢を率いてはいるが、他に(おも)だった将軍は、白楊(はくよう)にはおらぬ!」


「そう、焦ることはない。白楊(はくよう)など、奴一人が要の国」


「左様。奴さえいなくなれば、白楊(はくよう)など首のない鶏も同然よ」


 重臣たちの言葉に、崔瑾は胸の奥をざらつかせた。


(……果たして、そうか? あの男が、己の首一つに国を賭けるような戦い方をするだろうか。この猛攻の裏で、劉義(りゅうぎ)劉永(りゅうえい)の影が薄すぎるのが、どうにも解せぬ)


 だが、その疑念を口にする間もなく、崔瑾を急かす声がまた響いた。


「いずれにしても、早く実力ある将軍を派遣せねば」


大都督(だいととく)、どうされるのです」


 その中心で、崔瑾は泰然自若としている。


「私より、王に進言いたしましょう」


 崔瑾は重臣たちの嘆願を聞き入れ、毅然とした態度を崩さずに彼らを宥めた。





 しかし、王宮の一室に足を踏み入れた瞬間、崔瑾は、重い衣をもう一枚着せられたかのような、息苦しさを感じた。ここで交わされる言葉の全てが、戦場の現実から乖離(かいり)した、空虚な響きしか持たないことを、知っていたからだ。


 王宮の一室では、重臣たちを前に周礼(しゅうれい)が耳触りの良い言葉を並べ立てている。


「大王様は、この度の、赫燕の猛攻にも、決して臆してはおられぬ。むしろ、この機に、白楊(はくよう)軍を根絶やしにする好機と捉えておられるわ」


 周礼の声は、まるで、中身の空っぽな壺を叩いたかのように、やけに、甲高く、そして空虚に響き渡る。大臣たちは周礼の言葉に頷き、安堵の表情を浮かべている。


 しかし、崔瑾は違う。そのあまりに楽観的で、無責任な言葉に、崔瑾が顔を(ひそ)める。脳裏には、戦場の悲惨な光景が鮮明に焼き付いている。無数の兵士たちが血を流し、故郷を離れて戦い続けているのだ。


 一方で、王宮の者たちは、空虚な言葉遊びに興じている。


「周礼殿」


 喉から氷のような声が落ちる。


「お戯れは、そこまでにしていただきたい。今、この瞬間にも、南西の地では、民と兵が血を流している。その現実を見ようともせず、甘言(かんげん)ろうするのは、大王に(はべ)る臣下の仕事ではありますまい」


 周礼はいつもの甘ったるい笑みを崩さずにこちらを見ていて、何を思ったのか、満足げに口の端を吊り上げる。


「おや、これは、崔瑾殿。いささかお疲れのご様子ですな」


「迫る赫燕軍に対して、急ぎ対抗策を練っているのだ。そなたら文官は、戦場を——」


幾日(いくにち)も寝ておらぬご様子」


 崔瑾の言葉を遮るようにねっとりとした声が紡がれる。


「お疲れでしょうなぁ」


大都督(だいととく)として当然のことです」


「さすがですな。ですが、貴殿ご自慢の白楊(はくよう)の姫君は、今頃、屋敷で一人、寂しく貴殿の帰りをお待ちかねでしょう」


 周礼が一歩、崔瑾に近づいたその瞬間。ふわり、と。甘く、深い伽羅(きゃら)の匂い——後宮でも太后の間だけで焚かれる香りが漂った。一瞬、あの太后(たいこう)の面影と重なる。目の前の周礼がさらに蛇のような笑みを深めた。


「……もっとも、そのお寂しい夜もそう長くは続きますまい。戦が終われば、どんな形にしろ、姫君は月貌華(げつぼうか)(うた)われるその美しい体を持て余す暇などないでしょうからな」


 周礼の言葉が、的確に、魂に膿み続けていた傷口そのものを(えぐ)る。



 脳裏で()けつくように、記憶が(おぞ)ましい幻影へと変わる。


 腕の中にいる玉蓮。その瞳が、自分ではない、どこか遠くへ向けられる。いや、違う。見ているのだ。あの、白楊(はくよう)の獣を。その唇が、微かに動く。自分の名ではない、あの男の名を、音もなく紡いでいる。己が抱いているはずの彼女の、その魂だけが、あの男に奪われていく。


 崔瑾の頭の奥で、張り詰めていた何かが、ぷつり、と音を立てて切れた。



「——黙れ!」



 雷鳴のような一喝と共に、崔瑾が傍らの卓を拳で叩き割った。凄まじい音と共に、木片が飛び散り、周囲にいる大臣たちから「ひい」と小さな悲鳴が聞こえた。


「国を(うれ)い、民を思う者こそが、真にこの国を導くべきだ! 己の私欲に溺れる者が、高みに座す資格などない!」


 自らの唇から溢れる、激しさを止められない。すべてを守るのだ。民も、兵も、そして——彼女も。


 この衝動の果てに、たとえ、この身が滅びようとも、国と民、彼女の安寧があるのだから。いや、そうでなければ。そうであるはずだ。たとえ、結果として、王も太后も周礼までも守ってしまうのだとしても。それでも。


 そう、信じる。信じ抜いてみせる。





 謁見が終わり、崔瑾は呂北(ろほく)の西門へと向かった。太陽は西の山並みに微かに傾き、空は茜に染まりはじめている。



 城壁の上から、彼は眼下の往来を見やった。遠く、木材を積んだ牛車列が、油紙を掛けた荷を揺らしながら西外(にしそと)水門道へと折れていく。そこに肩に工具を担いだ職人たちが続き、通り過ぎた風に、削りたての木屑と、水を弾くための桐油(とうゆ)の重い匂いが混じり合う。


 きっと、西外(にしそと)水門の先に広がる深い葦原(あしはら)——霜牙の地一体では、その底なしの泥濘を隠すように、連日、板道を打つ音が続いているだろう。


 耳の奥で木槌(きづち)が三度、四度と鳴るような気がして、崔瑾は目蓋(まぶた)を下ろした。


 目を開き、西門の先の広い土地を見渡せば、視線の端、北へ抜ける古道にも、点々と人影が揺れている。


 全てを整えるのだ。己の信じる道を進むために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ