七話 華の旅立ち 2
顔を上げれば、そこには見慣れた三つの顔。厳しいながらも深い愛情で導いてくれた劉義。兄のように慕い、玉蓮の成長をいつもそばで見守ってくれた劉永。そして、いつも甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた温泰。
「先生、永兄様、温泰。誠に、世話になりました」
深々と頭を下げた。長い黒髪が、するりと肩から滑り落ちる。顔を上げて微笑むと、そこに温泰の震える声が届いた。
「姫様……」
温泰の大きな目がまるで泉のように潤み、目尻から大粒の涙がぽたりと落ちた。
「温泰、そんなに泣いては、目に良くありませんよ」
かつて温泰がよく口にしていた言葉を、彼に返したはずなのに、さらに嗚咽の音が彼の喉から聞こえてくる。
「幼かった姫様が……あのあどけなかった姫様が、まさかあのような修羅の軍へ……」
屋敷中を駆け回り、厨房から菓子をつまみ食いし、挙げ句の果てには秘蔵書を読み散らかしては、顔を真っ赤にした温泰に追いかけられた、あの頃の光景が目に浮かぶよう。その思い出が、今や遠い幻のように感じられる。
「首が百あっても足りぬと言いながら、いつも、わたくしたちを追いかけていましたね。それも今日で終わりです……どうか、永兄様を頼みます」
玉蓮が微笑みかけると、温泰は、くしゃりと顔を歪めた。
「……は。命に代えましても、劉永様をお守りいたします。ですが、姫様……」
温泰の言葉は、まるで喉に詰まったかのように途切れ、その視線が玉蓮から逸れて、その隣に向けられた。
「玉蓮……」
その声を聞いた瞬間、張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ息をついたように感じた。これは、彼だけが持つ、穏やかな響き。
「玉蓮、父上の軍ではだめなのか?」
いつの間にか握りしめていた手に、劉永が手を重ねて、一瞬のうちに決心したはずの心を震わせるから、その温もりを振り払うように、玉蓮は一度、目を閉じた。
そして、鳥の彫像を懐から取り出すと、指先でひびをなぞっていく。姉の凶報が飛び込んできたあの日、みしりと音を立てて入ったそのひび。突き刺さった木片の痛み。己の唇から溢れた血の赤。
(忘れるな。思い出せ——)
「姉上の四肢を切り落とし、皮を剥いだ玄済国のあの男は、今や王。太后と二人、強大な力を持っていると聞いております」
唇の端を無理に引き上げ、笑みを作る。その顔が、ちゃんと笑えているのかは分からなかった。ただ、目の前の劉永の瞳が、哀しそうに揺らめいたのだけが見えた。
「毒を制するには、毒をもってしか成せません」
「……毒を以て、毒を制す、か」
劉永が苦しげに呟いた。何かを言いかけ、けれど言葉を飲み込むように喉を動かし、最後には力なく口元を歪めた。そして、大きく息を吐くと、いつものように玉蓮の小さな肩をすっぽりと包み込む。彼の大きな手が彼女の体を優しく抱き寄せ、その温かさが胸に染み渡るように広がっていく。
玉蓮は口を固く結んだ。彼の胸に押し付けられた頬が、熱く濡れていくのを止められなかったから。せめて声が漏れ出ぬように唇を強く、強く噛む。
「玉蓮。僕は……きみを待っているからね」
「……永兄様、わたくしが都の者たちに、なんと詠われているかをご存知でしょう」
「この気持ちは、ずっと変わらないよ」
あの日と同じ、穏やかな夕暮れ。鳥のさえずりが遠くに聞こえ、風がそよぐ音だけが、やけに大きく耳に残る。劉永の言葉に、手の温もりや、茜色の光に透けた彼の髪の記憶が、一度に胸に流れ込んできた。
「ずっと……守ってくださったこと、決して忘れません」
抱きしめる腕の強さが増していく。心の臓の音。日向の匂い。これが最後だ。この温もりに身を委ねて仕舞えば、きっと刃を鈍らせる。だから、今ここで、すべてを断ち切らなければならない。
「……永兄様。玉蓮は、もう戻りません」
玉蓮は、そっと劉永の体を押し返した。
「この手は、これから多くの血で汚れます。永兄様の隣に立つ資格など、もうどこにもないのです」
驚いたように目を見開く劉永を残し、玉蓮はくるりと背を向けた。もう、振り返らない。振り返れば、きっと泣き崩れてしまうから。玉蓮は前だけを見据え、修羅への一歩を踏み出した。




