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七十三話 絹の首輪 2


 馬斗琉(ばとる)は、「(しょう)()様に太医を遣わせました」と告げて、頭を下げ退出した。


 部屋には再び重厚な静寂が訪れる。墨の香りと、布の擦れる音だけが、時折その静寂を破る。沈黙の中で、玉蓮は意を決して口を開いた。


「……なぜ、わたくしを?」


 その問いは、玉蓮の心の中で長い間くすぶっていた疑問だった。崔瑾は椅子に座ったまま、その視線を玉蓮の方へと向けた。


「なぜ、とは」


 彼の声は、いつものように穏やかだったが、その中に潜む真剣な響きが、玉蓮の心の芯を、直接震わせる。


「馬斗琉の言うとおりです。なぜ、あれほど強引に、わたくしを(めと)ったのですか」


 崔瑾は玉蓮の問いに即答せず、少しだけ遠くを見た。何かを考えるように、何かを思い出すように。そして、彼は自嘲(じちょう)するように、ふっと息を漏らす。


「……柄にもなく、熱くなってしまったのです。理由は、私にも、まだよくは」


 心の中で嵐が吹き荒れる。敵国の男で、今まで何度となく戦場で相対してきた総大将。その男が、紛れもなく自分を助け出したのだ。


 あの輿入れの日、ともすればこの男は斬首になっていてもおかしくはなかった。この国の闇を見れば見るほどに、その可能性は、事実となって、また鮮明になる。込み上げてくる、説明のつかない感情を振り払うように、玉蓮は崔瑾から視線を逸らした。


 視界の端で、崔瑾が立ち上がる。衣の音を微かに立てながら一歩ずつ進んで、玉蓮の前で止まった。そして、息づかいが聞こえたかと思うと、「今も」と小さな声がして、玉蓮は視線を崔瑾に戻した。


「復讐を、考えておいでですか」


 背骨に、凍るような風が走る。懐に忍ばせた赫燕(かくえん)の匕首が、まるで自ら熱を帯びたかのように、じり、と存在を主張する。何も答えない玉蓮を、崔瑾は、真っ直ぐに見つめている。長い沈黙の後、彼は口を開いた。


「……いつか、貴女(あなた)のその闇が晴れ、心から笑える日が来ることを、私は願っています」


 そう告げた崔瑾の手が、初めて玉蓮に伸ばされる。ためらいなく、しかしゆっくりと、彼の指先が近づく。その指先が頬を滑る瞬間、息が止まった。彼の胸が近づいてくる、そう思ったのに身体が動かない。


 そして、次の瞬間、肌を包む布の重みと腕の温かさが一斉に全身を押し包んだ。崔瑾の胸から心の臓の音が響いてきて、玉蓮は身じろいだが、その優しいはずの腕に力が込められる。


——なぜ。その言葉に涙が溢れるのか。炎が宿るこの胸が締め付けられるのか。


 そっと穏やかに抱きしめる、この腕を振り払いたい。この温かい胸を押し返したい。優しく触れるこの指を拒みたいのに、なぜ。溢れる涙が、とめどなく崔瑾の胸に吸い込まれていく。


 この人の側にいてはいけない。その誠実さに触れるたび、自分が抱き続けてきた憎悪の炎が、その形を失いそうになる。赫燕と共に歩むと決めた、あの血塗られた道が、ひどく遠いものに思えてしまう。


 この穏やかささえ、毒を(はら)んでいるように思えた。上質な絹でできた首輪のように——気づかぬうちに、ゆっくりと、確実に、心を締め上げてゆくのだろう。




 そんな風に心が揺れ動いた夜には、決まって悪夢を見る。崔瑾の屋敷の、この完璧すぎるほどの静寂がいけないのだ。


 赫燕の天幕に満ちていた、男たちの汗の匂い、酒の匂い、そして、あの男の肌の熱を、あまりにも鮮明に思い出させてしまうから。聞こえるはずのない姉の悲鳴が耳を打ち、そして、闇の底から見つめる、赫燕の深い瞳が脳裏に焼き付く。


 玉蓮は、懐から冷たい刃を取り出す。一本の匕首。


 『——喉笛に剣を突き立てろ』


 あの夜の囁きが、今も紫水晶の奥でくすぶっている。


 その冷たい石に頬を寄せる。肌に触れたそれは、ひやりと冷たかった。だがその冷たさの奥に、赫燕の、()けるような肌の熱がまだ残っている。血と甘い匂い、息が乱れる音、胸の鼓動。あの夜、彼の腕の中で、世界の全てがその色に染まっていた。


 この静謐(せいひつ)な盤面の下——誰にも気づかれぬように、玉蓮はそっと、赫燕の残り火を心の最奥に隠した。

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