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七十話 蜘蛛の謀略 2


 書斎に入り、重厚な木の香りに包まれながら卓へと向かった。静かに椅子を引き、腰を下ろすと、傍らに立つ阿扇に柔らかく頷く。


「では、報告を聞きましょうか」


 崔瑾の声が書斎に響くと、彼は一歩、さらに近くへと距離を詰める。


「は。まず、当時崔王后(さいおうこう)宮に運び込まれた香についてです。……入手経路を徹底的に調査しましたが、結果は『潔白』でした」


「潔白、ですか」


「はい。南海(なんかい)の交易商から正規の手続きで納入されています。最高級品です。毒性はおろか、不審な点は何一つございません。香炉は太后様が持ち込まれたものですが、香と同様に問題なしとした太医局の記録に改竄(かいざん)の跡は見られません」


 崔瑾は、組んだ指に顎を乗せた。


「……なるほど。香も香炉も問題なし、ですか」


「は。ですが、北厳寺(ほくがんじ)への寄進については、崔瑾様のご懸念の通りでした。寄進額は、もはや供養と呼べるものではありません。……そして、もう一つ。当時の人事に関する()の印影、これに不可解な『傷』がございます」


 阿扇が印影の(たく)を差し出す。崔瑾はそれを手に取り、灯りにかざす。そこに浮かび上がったのは、本当に微かに、しかし確かに存在する、歪な形。


「……確かに、欠けていますね」


「はい。現在の()は、火災が起こる前年の春に生じた欠けがございます。ですが、火災前後に発布された辞令。その印影には『欠け』はございませんでした。つまり——」


「……複製の()を使った、と。口封じの人事のために、そこまで周到に準備をしていたのか。確かに、そこから周礼の出世は始まっている——」


 崔瑾は冷めた目で拓を見つめた。証拠としては十分だ。だが、何かが指先に引っかかる。


(——簡単すぎる)


 太后が、これほど見つけやすい綻びを放置するだろうか。


(……いや、違う。これは、(おとり)だ)


 これは、追っ手の目を『手続き上の不正』に向けさせ、本丸の罪——『王后殺害』から目をそらせるための蜘蛛の糸ではないのか。


「阿扇。この印影の件は一旦預かります。……おそらく、本命は別にある」


「は、仰せの通りです。太医(たいい)局の診簿(しんぼ)、および火災の公式記録ですが、王宮の書庫にはございませんでした」


「失われたのですか」


「いえ、周礼殿の進言により、『王后宮の(けが)れを新王都に持ち込むべからず』と、旧王都の盛楽にとどめられております」


 崔瑾は短く、鼻で笑った。


「穢れ、ですか。……実に便利な言い訳だ」


「その記録を、書き写してまいりました。こちらを」


 崔瑾は差し出された写しに視線を落とした。


「公式には『焼死』とされています。ですが処刑された宦官が崔王后様を呪っていたとして、当時焼け死んだ者たちは全て『穢れ』として寺へ送っておりました」


 崔瑾の目が、ある箇所に留まった。どう考えても数が合わないのだ。


「……阿扇、ここの人夫の数を見てください。運び出されたはずの遺体の数に対して、人夫が少なすぎる。これでは、亡骸を運ぶどころか、空の荷車を引くのが精一杯のはずだ」


 崔瑾は唇を手で覆った。やはり太后が隠したいのは、偽造の印ではない。あの日、あの場所で、生きた人間がどう死んだか、その一点だ。


「埋葬せずに……す、捨てたというのですか。そんな、そんなことが……人として、そんな」


「それをするのが周礼と太后です。阿扇……(しょう)尚書(しょうしょ)を訪ねてください。周礼が当時、実際に遺体をどこへ運ばせたのか。その『荷車』を追う必要があります。戸部の奥底に眠る、二十年前の裏の記録を。彼ならば、見つけ出せるはずだ」


「……は。ですが崔瑾様、蕭尚書を動かせば、太后派にこちらの動きを悟られる恐れが」


「わかっています。ですが、今は一刻を争う。……彼に伝えてください。『王家の血を引く者として、真実を求める』と」


「……承知いたしました。すぐに動きます」


 夜更け、(ろう)の角に微かな伽羅の残り香が漂った。この香りは後宮の最奥でしか焚かれない——太后(たいこう)の手の者か。


(急がねば)


 崔瑾は机を一度、叩いた。

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