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七話 華の旅立ち 1

◇◇◇


 十六歳になり、塾を卒業する日、数多(あまた)の将軍の中から、玉蓮は迷いなくその名を口にした。



「——赫燕(かくえん)将軍の元へ」



 その名を出した瞬間、部屋の温度が氷点下まで下がった気がした。茶を注いでいた劉義(りゅうぎ)の手が止まる。茶器から溢れた湯が卓上へとこぼれ、ポタ、ポタ、と床を叩く音だけが、やけに大きく響いた。劉義(りゅうぎ)も、温泰(おんたい)も、まるで亡霊でも見たかのように目を見開いて固まっている。ただ一人、劉永(りゅうえい)だけが、静かに瞼を伏せた。


 やがて、劉義(りゅうぎ)は茶器を傍らに置くと、ゆっくりと顔を上げた。その瞳と視線がぶつかった瞬間、喉がきゅうと狭くなる。


「玉蓮。私は、あの者の元へと行かせるために、お前を育てたのではないぞ」


 一瞬、ぐらりと体が揺れそうになり、どうにか両手に力を込めて体を支える。


「先生……」


「そのために、公主であるお前が王宮を離れるという、特別なお許しを大王にいただいたのではない」


 玉蓮を産むと同時に死んだ宮女の母、そして唯一の家族だった姉。その姉さえも失った六歳の彼女に血を注ぎ込むようにして、知略も武勇も鍛え、育ててくれた恩師の声が、ひどく掠れていた。


「わかっているのか。あの者は血筋や立場など(かえり)みぬ。王族であろうと、容赦なく切り捨てる。赫燕(かくえん)将軍の元に身を置くということは、その闇に触れるということだ。軍に属する者として、上官に斬られても——何をされても、決して文句は言えぬ。それほどの覚悟がいる」


「承知しております」


 脳裏に浮かぶのは、血のように赤い婚礼衣装を纏い、微笑んでいた姉の最期の姿だけ。(ふところ)に忍ばせている守り鳥が、まるで熱を持っているようで胸が痛い。


赫燕(かくえん)軍は本国における最強の『(ほこ)』。その切っ先の向く先にあるのは、常に大国・玄済(げんさい)。わたくしは、姉上の仇に届かなければなりません」


 玉蓮は、ただ真っ直ぐに師の瞳を見つめ返した。


「かの軍は、北の大孤(だいこ)を攻め、明日にもそのまま南下して玄済(げんさい)国に入るはず」


「玉蓮……」


「先生、どうか、お願いいたします。赫燕(かくえん)将軍の配下に。わたくしは、どうしても……あの力が欲しいのです」


 そう俯きながら告げると、隣にいる劉永(りゅうえい)の握りしめられて、白くなっていく拳が視界に入った。


「永兄様……」


 彼の手から視線をあげれば、こちらを静かに見つめる瞳と目があった。彼の瞳に見つめられ、いくつもの日々が脳裏に蘇る。


 先生に息子だと紹介された、あの日。ともに月明かりの下で剣を振り、書を学んだ夜。そして、(あざ)だらけになった手を、いつも握ってくれていた、あの温もり。


 目の前で、あの頃と変わらない美しい瞳がただ真っ直ぐに自分を映し出す。そのあまりに純粋な眼差しに、胸の奥が、きりりと痛んだ。そして——


「玉蓮」


 いつの間にか低くなった声が、昔と変わらず玉蓮を優しく呼ぶ。その声に導かれるように、玉蓮は三人に向き直り、両手を静かに床につく。木の温もりが、手のひらにじんわりと伝わる。

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