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六十八話 霜牙(そうが)の地 1

◇◇◇


 その日、崔瑾(さいきん)の書斎には、重い空気が満ちていた。玄済(げんさい)国の北東の国境で、騎馬民族・大孤(だいこ)が戦を仕掛けてきたというのだ。聞けば、彼らの地はここ数年、深刻な干ばつに見舞われているという。討伐軍は送っているが、敵は険しい山岳地帯に巧みに身を隠し、戦は膠着(こうちゃく)していた。


「崔瑾様。また、霜牙(そうが)の地でございますな。冬は骨まで凍え、夏は牙を()く灼熱の大地。しかし、あの乾ききった土地の先にこそ、我が国の水の源があることもまた、事実」


 馬斗琉(ばとる)が、忌々しげに地図の北を指差した。


「我が国側の霜牙(そうが)は、(あし)の帯が長く続く地。板を渡せば進むが、渡さねば馬は沈みます。早急に板を渡し、兵を増強。力押しで一気に叩くしかないかと」


 馬斗琉の進言に、崔瑾は渋い顔で首を振った。


「……それでは、食い詰めた狼を窮鼠(きゅうそ)にすることになる。損害が計り知れぬ」


 玉蓮は、二人のやり取りを静かに見守っていたが、やがて卓に広げられた地図の、大孤(だいこ)国と玄済(げんさい)国の国境を指でなぞっていく。


「……ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか」


 彼女の視線は、崔瑾と馬斗琉の間をゆっくりと巡る。二人の視線が、彼女へと注がれるが、玉蓮は、その視線を受けても動じることなく、まっすぐに問いを投げかける。


「この霜牙(そうが)の地。なぜ干ばつに(あえ)大孤(だいこ)が、これほどまでにこの地に執着するのですか? これではまるで国盗りのようです」


 馬斗琉から、はっと息を呑むような音が聞こえる。彼は一度深く息を吸い込み、口を開いた。


「……水の源でございます。大孤(だいこ)との国境から南下した先に、今は我ら玄済(げんさい)国の水源地となっている——」


「——ならば、話は早い」


 馬斗琉の言葉が、終わるか、終わらないか。玉蓮は、まるで最後の駒が嵌まった盤面を見るかのように、静かに微笑(ほほえ)んだ。あの男の呼吸が微かに宿る。


「彼らが求める、餌を差し出しましょう」


 玉蓮は、膠着(こうちゃく)する戦線から少し離れた場所にある、一つの小さな砦を指差す。敵の強欲そのものを釣り針にかけ、魂ごと釣り上げる、苛烈な罠を仕掛けなければ、と。頭の中で兵の駒が動いていく。


「彼らが欲しいのは、水。であれば、この砦の蓄えをすべて『水』と『塩』に見せかけ、城門を開け放ちます」


「っ……城門を!? それでは砦を明け渡すも同然ではないですか!」


「そうです。『利をもってこれを誘い、(みだ)してこれを取る』。兵を引かせ、砦を空にするのです。ただし——」


 玉蓮は指先で(とりで)をなぞり、その先の谷間を叩いた。


「砦に至る唯一の街道。この谷間の道で、偽の補給部隊をわざと襲わせ、荷を捨てて逃げさせる」


 玉蓮の瞳が、冷徹な光を帯びる。

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