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六十七話 氷解の音 2

◇◇◇


 しばらくの間、必要不可欠な言葉だけを発していた玉蓮に、ある日、崔瑾は、ずらりと並べられた軍議の記録をその前に広げた。


「玉蓮殿、こちらを」


「……なんです」


 冷たさしかないような声を返されても、崔瑾はやはり、どこか微笑(ほほえ)んでいるように見えた。そして、その地図の上に、駒を淀みなく置いていく。書簡も何も見ることなく、優雅な動きで次々と手を動かし、あっという間に戦の布陣を地図上に浮かび上がらせる。


「これは先日の(せん)国との戦の記録です。玉蓮殿の目から見て、この布陣はどう思われますか」


 顎先をさすりながら、目をどこか輝かせて地図を覗き込む崔瑾。玉蓮は、彼の問いに、初めは黙秘を貫いていた。だが、彼女の視線は地図の上を滑っていく。そこに描かれた鮮やかな布陣、無駄のない兵の配置。


 玄済(げんさい)の将の戦術。憎むべき相手のもの。欠点を探すつもりで目を走らせたのに、気づけば指先がその布陣をなぞっていた。視線が吸い寄せられ、思わず口が動いていた。


「……この、左翼の部隊は(おとり)ですね」


 声が漏れた瞬間、心臓が跳ねる。しまった、と奥歯を噛み締める。だが、崔瑾は静かに頷く。


「ええ。あなたの目には、そう映りますか」


 穏やかに微笑(ほほえ)む彼の瞳の中。その柔らかな光を見つめられずに、玉蓮は、再び地図に目を落とした。


 北には大孤(だいこ)国、東には(せん)国。大国である玄済(げんさい)は、あまりにも多くの国と、その国境を接している。その、複雑に絡み合った国境線の一つ、玄済(げんさい)国の北東部に彼女は不自然な空白地帯を見つけた。


「崔瑾殿、ここの地は? 王都・呂北(ろほく)の西に広大な地が広がっていますね」


 玄済(げんさい)国の王都・呂北(ろほく)は、玄済国の中央ではなく、国の北端に位置していた。後ろは険しい山脈に守られた天然の要塞だが、一部、(せん)大孤(だいこ)と国境が近しいところもある。


霜牙(そうが)の地、ですね」


「旧王都の盛楽(せいらく)の方が、大孤(だいこ)国や(せん)国の国境から距離もあるのでは?」


 玉蓮の問いかけに、崔瑾は遠い目をして答える。


「——かつて、()と呼ばれた騎馬の国があったと聞き及んでおりますが、暴政ゆえに、民に見捨てられ、滅びたと聞いています」


()……」


「ええ。玄済(げんさい)国は、()の民と呼応し、()の国王を処刑し、その領土を併合。そして、豊かな水源が近いこの呂北(ろほく)の地に遷都した……歴史書には、そう記されています」


 玉蓮は、地図を再び視界に捉えた。地図の上ではただの空白に過ぎないが、かつてはそこに、人々が暮らし、文化が栄えた国があったのだ。


「その豊かな水源があるからこそ、我が国はここまで富むようになったようです……」


「水源ですか」


 地図を真剣に見ていた玉蓮の耳に、突然、「ああ」という声が届いた。どうしたのかと見つめる玉蓮に、楽しげな笑みを見せながら「そういえば」と続けた。


「今朝は、その豊かな水源から採れた甘い水が手に入ったと侍女が言っておりました。茶を飲みましょう。いい茶葉も手に入れたのです」


 その何気ない一言が、それまで張り詰めていた空気をやわらかくほどいていく。


「論じ合いもほどほどにせねば」


「あ、わたくしが」


 玉蓮が立ちあがろうとすると、崔瑾はにこやかに首を振った。


「私は、茶を淹れるのが好きなのですよ。よろしければ、お付き合い願えますか」


 弧を描く唇と細められた瞳。赫燕(かくえん)の、全てを焼き尽くすような熱とは違う、抗いがたい力。心の内に張り付いていた氷の膜が、崩れる音もなく、底からじんわりと温もりに染まり始めた。


 まだ、心を許したわけではない。けれど確かに、何かが、ほんのわずかに動いた。

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