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六十六話 英雄の華 1

◇◇◇ 崔瑾(さいきん) ◇◇◇


 その緊迫したやり取りの中、ふふ、と喉を鳴らす湿った音が崔瑾(さいきん)の鼓膜を震わせた。太后(たいこう)が口元を扇で隠しながらも、愉しげに肩を揺らしていた。


「『英雄の魂を焼きつくしてなお、皆が競ってその炎に飛び込むこと、飛蛾(ひが)のごとし』とは、よく言ったものだ。そなたを手に入れるために、皆が躍起になっておる」


 一瞬、後ろにいる玉蓮に視線を向ければ、何も映していないかのような瞳で虚空(きょくう)を見つめていた。その姿にじくりと胸が(きし)む。


太后(たいこう)様、どうか、お聞き届けいただきたいのです。刺客を大王様の寝所に招き入れることと同義にございます。後宮に入れてはなりませぬ」


 己の喉から、ごくりと音がする。汗が一筋、頬を伝っていく。


「……だが、公主は大王の後宮に贈られてきたのだ。まごうことなき妃としてな。それを辞めると言うなら、それ相応の、誰もが納得するような言い訳を白楊に伝えねばならぬ。どうするつもりだ、大都督(だいととく)よ」


太后(たいこう)様のおっしゃる通りであるぞ、崔瑾殿。王が娶るべき姫君を、一体どうするというのだ。この件は、そなたの一存で決められることではない」


 周礼(しゅうれい)の声が、蛇のように音もなくその場に滑り込んでくる。彼の冷ややかな視線は、こちらを射抜くように向けられ、場の空気は一層重苦しくなる。



 数刻にも感じる沈黙の間、崔瑾の脳裏には、何度も反芻(はんすう)し、そして打ち消してきた一つの可能性が浮かび上がっていた。それは、この窮地を打開するための、あまりにも危険で、しかし彼女を生かす唯一の道。


(長い大陸の歴史の中でも、数例の可能性にかけるしかない。ここで動かなければ、彼女の未来は、血に染まる——)


 心の臓が、早鐘を激しく打つ。それは恐れでも迷いでもなく、覚悟を決めた者だけが知る、激しい決意の律動。目の前の事態は、まさに絶体絶命。勝算があって、ないような力業(ちからわざ)の交渉だ。


 これまでに(つちか)ってきた知略も、政治的駆け引きも通用しない、一世一代の大博打。しかし、不思議と恐怖はない。


 胸の中で(くすぶ)っていた残り火が、一気に燃え上がり、全身の血を沸騰させていく。


 諦めるという選択肢は、己の中には存在しない。崔瑾は、肺いっぱいに空気を吸い込み、そして腹の底から声を張り上げた。


「——ならば、公主を……大都督(だいととく)・正室として迎えまする」


「何を言う!!! 白菊は私のものだ! たかが一介の武将が、王の妃を奪うとは、許し難い暴挙ぞ!」


 王の絶叫が広間を揺るがす。その顔は怒りで赤黒く歪み、浮き上がった青筋がピクリと跳ねた。地獄の底から響くような、その咆哮(ほうこう)と共に、荒れ狂った視線が突き刺さる。


「どうか、公主を下賜(かし)ください。崔家は、王族に連なる家。白楊も認めましょう。この崔瑾を、白楊(はくよう)国・公主の守護者としてお認めください」


 喉が、からからに乾ききっている。背中を嫌な汗が伝っていくのがわかる。それでも、声に一切の震えは乗せなかった。その場にいる全ての重臣のいかなる反論も封殺(ふうさつ)する、絶対的な響きを声に込めた。


 速まろうとする鼓動を叱咤するように、薄く、長く、静かに息を吐き切る。


 場が静まり返り、王の唇が悔しげに歪み、周礼の、常に貼り付いていたはずの笑みが、完全に消え失せていた。だが、一人だけ——太后(たいこう)は、静かに微笑(ほほえ)んでいる。


(なぜだ。王の怒りを買い、ここで処罰されることさえ覚悟していたのに)

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