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六話 茜色の思い


 劉義(りゅうぎ)の書斎を出た玉蓮を待っていたのは、朗らかな光。


「今日は特に夕陽が美しいんだ。見に行こうか」


 いつも通り差し出された手に、玉蓮(ぎょくれん)は自分の手を重ねる。ゆったりと歩く劉永(りゅうえい)を見上げながら、その隣を歩いていく。何度繰り返したかわからないその光景に、やはり息がほどけていく。



 練兵場の片隅で、茜色に染まる夕陽を黙って眺めた。日中の喧騒(けんそう)が嘘のように静まり返った空間に、風が穏やかに吹き抜け、沈みゆく太陽の最後の輝きが世界を柔らかな光で包み込む。


 夕陽にかざすように、玉蓮は懐から木製の鳥を取り出し、空へと掲げた。袖から覗く細い腕には、無数の(あざ)が刻まれている。赤、紫、青。痛々しいはずのその傷跡が、夕陽の赤を吸って、まるで鮮やかな花が咲き乱れているかのように見えた。


 ふわりと、温かいものがその手を包み込む。劉永(りゅうえい)の大きな手のひら。彼が守り鳥ごと、玉蓮の傷ついた指先をいたわるように撫でると、冷え切っていた玉蓮の皮膚に、じんわりと熱が移っていく。


「真っ白な手が、真っ赤になってしまったね」


 劉永(りゅうえい)の声を聞くと、強張っていた肩の力が、自然と抜けていくのが分かった。


「良いのです。玉蓮は、このために生きているのですから」


 玉蓮の視線は、姉が遺した鳥へと向けられていた。劉永の温もりに包まれながらも、意識は、遠い場所へと飛んでいく。目を閉じれば、浮かび上がるのは、墨を流したような漆黒の闇。その闇の奥底で、血に濡れた刃が(ひらめ)き、冷たい光を放っている。



 ——この手でいつか、あの男の喉を()き切るのだ。



 彼から伝わる温かさとは裏腹に、自分の指先から、すうっと血の気が引いていく。


(えい)兄様……」


 名を呼べば、微笑みを返してくれる。夕陽に照らされた劉永(りゅうえい)の笑顔は、あまりに真っ直ぐで、眩しい。玉蓮は思わず目を細めた。


「いつか玉蓮も、いずこかの殿方と縁談が結ばれるのでしょうか……公主、として」


 そう静かに問いかけると、彼の指先がぴくりと微かに震えるのが伝わってきた。その手に、力がこもっていく。劉永(りゅうえい)は、ゆっくりと玉蓮の手を撫でて、ふっと柔らかく笑みをこぼす。


「僕の、お嫁さんでもいいんだよ」


 時が止まったようだった。不意を突かれた玉蓮は、瞳をぱちくりとさせ、呆気にとられたように劉永(りゅうえい)を見つめる。冗談めかした口調。けれど、その瞳は痛いほどに真剣で、揺るがない光を宿していた。


(——ああ、もしも)


 もしも、姉が生きていて、自分も普通の娘であったなら。その言葉にどれほど心が震えただろうか。けれど、その「もしも」は、訪れない。


 玉蓮は胸の奥のきしみを隠すように、ふふ、とあえて明るく笑ってみせた。


「永兄様ったら。またそのような戯言(ざれごと)を。力のない公主が、劉家(りゅうけ)のような名家に嫁げるはずがございませんのに」


 劉永(りゅうえい)に向けて笑いかけると、彼は一瞬、息を呑むようにして、玉蓮を見つめる。目の前の大きな瞳の奥で、夕陽が炎のように揺らめいた。頬に添えられる大きな手。夕陽に透ける彼の髪が、柔らかな光を放っている。


 二人並んで、燃えるような空を見上げた。地平線に沈みゆく太陽は、どろりと重く、まるで世界が流す血のように赤い。繋がれた手の温もりは、泣きたくなるほどに優しく、そして——残酷なほどに遠い。


 やがて、太陽が山の尾根の向こうへと堕ちていく。世界から色が失われ、足元から濃密な影が這い上がってくる。光の時間は、終わったのだ。玉蓮は、劉永(りゅうえい)の手を握ったまま、訪れる闇を静かに見据えた。

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