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六十二話 別れの匕首 2

 そして、部屋の隅で一人酒を飲んでいた赫燕が静かに立ち上がった瞬間、部屋の空気が一変した。彼の前にすっと道ができる。


 赫燕は、黙って玉蓮の目の前まで歩み寄り、美しく着飾った玉蓮を見つめた。その漆黒の瞳は、決して逸らされることはない。彼の視線が、まるで体の芯を直接掴むかのように、玉蓮を射抜く。


「……参ります」


 玉蓮は、絞り出すように、そう紡ぐ。一歩だけ踏み出せば、その胸に戻れる。そう思うほどに、彼は玉蓮の目の前に立っていた。視線を少しだけ下に向ければ、玉蓮の胸元と同じように、赫燕の胸元で紫の石が揺れている。


 赫燕が懐に手を入れて、そこから一本の豪奢(ごうしゃ)匕首(ひしゅ)を取り出した。漆黒の(つか)に映える紫色の石と、鈍く光を放つ刃。そして、匕首を玉蓮の手に滑らせると、その指に力を込めさせ、強く握らせる。骨ばった指が、玉蓮の手を一瞬だけ包み込む。


 指先の熱と、ひんやりとした金属の感触が、玉蓮の手のひらにじんわりと広がっていく。玉蓮の視線は、匕首(ひしゅ)(きら)めきに吸い寄せられるように、その刃紋(はもん)を追っていた。


「……」


 玉蓮は、赫燕の瞳を見つめた。美しい漆黒の奥で、光が揺れている。


 やがて、玉蓮は震える唇をどうにか動かした。


「……必ず」


 そう一言告げると、玉蓮は、その匕首を胸元の紫水晶へと手繰り寄せるように強く握りしめる。冷たい匕首の感触と、玉蓮自身の体温で熱を帯びた紫水晶の感触が、手のひらの中で奇妙に混じり合う。


 そして、玉蓮が音もなく背を向け、一歩を踏み出した瞬間。



「——生きろ」



 いつの間にか、玉蓮の耳に馴染んでしまった低く力強い声が玉蓮に届いた。命令のような、願いのような、その声の響き。その一言が、胸の奥で何かをばきり、と音を立てて折った。息が詰まり、喉の奥にせり上がった熱が、声にならずに溢れそうになる。



「——っ!」



 玉蓮は一瞬、駆け出してしまいそうな体を押さえ込むようにして、握りしめる拳に力を入れた。これでもかと。爪が食い込み、血が滲むのがわかった。それでも、力を緩めることができなかった。そうでもしなければ——あの伽羅(きゃら)の香りがする胸に戻ってしまうから。


 玉蓮は、必死に一歩ずつ足を前に出していく。絹が擦れ合う音だけが響いている。回廊に出ると、玉蓮の後ろでギイと扉が閉まる音がする。


 そして、閉ざされた扉の向こう側から、何かが砕け散る音が響いた。その音に、思わず瞳を強く閉じれば、一筋、涙が頬を伝っていく。


 玉蓮は、前だけを見据えて歩き出した。一本の匕首(ひしゅ)と、紫水晶を胸に抱いて。

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