第2章:電車に揺れる予感 ①
朝の光が窓から差し込み、ぼくは目を覚ました。カーテンの隙間から漏れるオレンジ色の光が、昨日の夕焼けのように温かく部屋を満たしている。アラームが鳴る前に目覚めるのは珍しいことだ。ぼくは体を起こし、窓の外に目を向けた。雲一つない青空が広がり、今日一日も良い天気になりそうだ。
(今日も、いつも通り、かな)
そんなことを考えながら、ぼくはベッドから降りた。身支度を整え、リビングに降りると、陽葵の家のほうからカレーの匂いが微かに漂ってくる気がした。昨日の夜は、陽葵の家でカレーをご馳走になった。彼女の母さんの作るカレーは、いつも家庭的で温かい味がする。ぼくの母さんも陽葵の母さんも、いつも「まるで一つの家族みたいね」と笑い合っている。
朝食を済ませ、玄関で靴紐を結ぶ。ピカピカに磨かれたローファーに、ぼくは再び視線を落とした。ドアを開けると、そこにはもう陽葵が立っていた。彼女の顔には、昨日よりもさらに明るい笑顔が浮かんでいる。
「おはよう、春斗!早く早く!今日も一番電車だよ!」
陽葵はそう言って、ぼくの手を引いた。彼女の指は、ぼくの手のひらに温かく触れる。その積極的なアピールに、ぼくはいつも通り少しだけ照れくささを感じながらも、心地よさを覚えていた。
「おはよう、陽葵。そんなに急がなくても、まだ時間あるんじゃないか?」
「だめ!早く行きたいの!」
陽葵は屈託のない笑顔でそう言い、ぼくを引っ張るようにして歩き出した。彼女の視線の先には、いつも乗る朝の電車が待っているのだろう。
駅までの道のりも、陽葵との会話も、昨日と何ら変わりない。他愛もない学校の話、週末の予定、そして少しだけ混ぜる甘えた言葉。それが二人きりの時の陽葵の姿だ。
駅のホームに到着すると、健太がすでにベンチに座ってスマホをいじっていた。彼はぼくたちの姿を見ると、すぐに立ち上がって近づいてくる。
「おう、早ぇな、お前ら」
「あんたが普段は遅いだけでしょ!」
陽葵が健太にツンと返事をする。ぼくと陽葵が手を繋いでいたわけではないが、彼女の態度の急変に、健太は一瞬だけ表情を曇らせたように見えた。しかし、すぐにいつものぶっきらぼうな顔に戻る。
「はいはい、悪かったな。昨日は違うけどおれは一駅向こうから来てんだぞ? こっちまで間に合うように乗るの、けっこう大変なんだからな」
「知らないわよ、そんなの。春斗、次の電車、あと何分?」
陽葵は健太には視線を向けず、ぼくにだけ問いかけてきた。健太は、陽葵のその態度に、小さくため息をつく。
(健太は、陽葵のこういう態度に、慣れてるのかな)
ぼくは健太の横顔をちらりと見た。彼の視線は陽葵に向けられているが、その目は、諦めと、それでも拭いきれない期待のようなものが入り混じっているように見えた。
電車がホームに滑り込み、ドアが開く。昨日と同じように、ぼくたちはドア付近に三人で並んで立った。健太はすぐにゲームを始め、陽葵はイヤホンをして窓の外を見つめている。ぼくは、いつものように車内の人々を観察し始めた。
(今日は、あの高額アルバイトの女性はいないな)
昨日と同じ時間帯、同じ車両。だが、昨日見かけた女性の姿はない。彼女の日常もまた、何気ないようで、ぼくには想像もつかないような事情を抱えているのかもしれない。
電車は最初の駅を出発し、ゆっくりと加速していく。その揺れの中で、ぼくはふと、目の前のドアが開いたままになっていることに気づいた。連結部分のドアではなく、車両と車両を隔てる、いわゆる「貫通扉」と呼ばれるものだ。通常は走行中に閉まっているはずだが、なぜか開いたままになっている。
(あれ?閉まってないな)
ぼくは少しだけ不思議に思った。特に危険があるわけではないが、少し珍しい光景だ。ぼくの視線が、その開いたドアの向こう側へと吸い寄せられる。
その時だった。
ガタン!と、いつもよりも大きな揺れが電車を襲った。同時に、キィィィィィ!という甲高いブレーキ音が響き渡る。車内にいた乗客たちが、一斉にバランスを崩し、よろめいた。
「うわっ!」
「きゃっ!」
健太のゲーム機が手から滑り落ちそうになり、陽葵は小さく悲鳴を上げた。ぼくも思わず吊革を強く握りしめる。乗客たちの間で、ざわめきが起こる。
「な、なんだよ、今の?」
健太が驚いた顔で言う。陽葵もイヤホンを外し、不安そうな表情でぼくを見上げていた。
車内アナウンスが響く。
「ご迷惑をおかけしております。ただいま、緊急停車いたしました。詳細につきましては、確認中でございます。恐れ入りますが、しばらくこのままお待ちください」
緊急停止。
車内には、緊張と不安が広がる。電車は、駅と駅の間の、見慣れない場所で止まっていた。窓の外には、線路脇の草むらと、遠くに見える住宅の屋根が見えるだけだ。
(一体、何があったんだ?)
ぼくの観察眼は、突然の非日常に戸惑いながらも、周囲の状況を敏感に察知しようとしていた。




