エピローグ:陽だまりのパンケーキ
リビングに降りると、甘くて香ばしい匂いがふんわりと漂っていた。キッチンには陽葵が立っていて、フライパンを巧みに操りながら、まるで自分の家のように動き回っている。その姿を見ただけで、朝の眠気も一気に吹き飛んだ。
「あ、春斗、おはよう!ちょうど焼けたところだよ」
陽葵が振り返り、笑顔を見せる。その笑顔は、冬の朝の日差しみたいに温かく、ぼくの胸の奥までじんわりと染み渡る。エプロン姿の彼女は、どこか無邪気で、でもしっかり者の雰囲気を纏っていた。
「おはよう、陽葵。すごくいい匂いだね」
「でしょ?約束、覚えてた?」
その言葉に、ぼくは少しだけ目を細める。ああ、そうだ、あの時の約束。陽葵が「今度パンケーキ作ってあげるね」って言ってくれたことを思い出した。まだ幼馴染だった、あの頃の光景がふと蘇る。
「うん、もちろん覚えてる」
ぼくが答えると、陽葵はにっこり笑った。笑顔に混じる少しの照れが、可愛らしくてたまらない。
テーブルには、きれいな焼き色のパンケーキが何枚も重ねられ、横にはバター、メープルシロップ、イチゴやブルーベリーなど色とりどりのフルーツが並んでいる。湯気が立ち上り、甘い香りとフルーツの酸味が混ざった匂いが、リビングいっぱいに広がっていた。
「さあ、座って!冷めちゃうよ!」
「いただきます」
「はい、めしあがれ!」
ナイフを入れると、パンケーキはふわりと柔らかく、湯気が立ち上った。一口食べると、口の中に優しい甘さが広がり、ふわっとした生地の食感が心地いい。
「おいしい……」
思わず呟いた声に、陽葵は嬉しそうに微笑む。
「ほんと?よかったぁ」
「陽葵も、早く食べなよ」
「うん。でも、春斗が美味しそうに食べてくれるのを見るのが好きなの」
その仕草は、少しだけ照れたようで、でも確かに嬉しそうで、ぼくの胸の奥が熱くなる。何でもない朝の光景だけど、二人でいると特別に感じるのはなぜだろう。
食べながら、ぼくたちは他愛もない話をする。学校のこと、クラスメイトのこと、文化祭での出来事、そしてこれからのこと。健太が最近バスケ部のマネージャーの女子生徒と少し仲良くなった話に、二人で笑ったり突っ込んだりする。
(健太にも、新しい日常が始まってるんだな)
そのことを思うと、自然と笑みがこぼれる。ぼくたち三人、それぞれが少しずつ変わりながらも、こうして日常を楽しんでいる。
食べ終わると、ぼくたちは二人でソファに座った。陽葵はぼくの肩にそっと頭を乗せて、髪の匂いがふんわりと鼻をくすぐる。窓から差し込む陽光が、二人のシルエットを柔らかく照らしていた。
「ん……?」
「これからも、ずっと、こうして朝ごはんを食べたいな」
陽葵の声は、柔らかく、でも確かに心に響いた。ぼくは黙って頷く。言葉にしなくても、互いの気持ちは伝わっている。
目の前に広がる朝の光景は、以前の「いつも通り」とは違う。隣には大切な人がいて、手を伸ばせば温もりを感じる。小さな日常の一瞬一瞬が、宝物のように愛おしい。
「春斗、見て、この焼き色……完璧でしょ?」
陽葵は満足げにパンケーキを差し出す。その仕草に、ぼくは思わず笑った。
「うん、完璧だよ。でも、これ以上に素敵なのは、陽葵の笑顔だ」
その言葉に、陽葵は頬を赤くして、でも嬉しそうに笑う。
ぼくたちは、朝の柔らかな陽だまりの中で、ただ静かに時間を過ごした。言葉にできない幸福感が、胸いっぱいに広がっていく。
窓の外では、街の音がゆっくりと始まり、電車が行き交う。風がカーテンを揺らし、朝の光と香りと温もりが混ざり合う。その全てが、今の二人の幸せを象徴しているかのようだった。
「ねえ、春斗」
「ん?」
「これからも、一緒にいようね」
陽葵の小さな手が、ぼくの手を握る。軽くて温かい。その感触が、心に深く刻まれる。
「もちろんだよ。ずっと一緒だ」
ぼくはそう答えると、二人の視線が重なり、言葉にしなくても分かる確かな気持ちが、そこにあった。
当たり前だった日常はもうどこにもない。でも、新しい日常は、あの頃よりもずっと、温かく、輝いて見えた。この陽だまりの時間が、これからもずっと続いていくことを、ぼくは心から確信していた。
二人の線路は、これからも続いていく。時には笑い、時には悩みながらも、手を取り合いながら。未来の景色を、二人で少しずつ描いていくのだ。




