第3話「世界情勢」
1ヶ月後――。
赤薔薇の王宮、学習室。
部屋の中央に位置するマホガニーの机には、様々な濃さの鉛筆、ボールペン、万年筆、インク壺が並ぶ。紙だけでなく、羊皮紙も用意されている。
壁一面に本棚が広がり、革表紙の本、歴史書、地図、様々な年代物の書籍が並ぶ。
丈夫な梯子が備え付けられており、高い位置の本でも手に取ることができる。
その日も学習室でジュリアはトーマスの授業を受けていた。
「……そして、賢王レジナルドは子供達に語りかけました。
世界のために生きる時、人生は変わり始める」
「やっぱりすごかったんだなー、レジナルド王って」
「では、お手元の資料を参考にし、世界のために生きるという志を立てていきましょう」
「えー、そんなこと言われてもなー」
「いきなり志を立てるのは難しいものです。
まずは理想の将来像をいくつか思い描いてみましょう」
「理想の将来かぁ。お医者さんか看護婦さんかな〜。
でも、何か違う気もするんだよな〜」
トーマスに促され、ジュリアは頬杖をついてしばし物思いに耽る。
***
ジュリアは成長し、すっかり大人になっている。10代後半から20代前半くらいの年齢。
純白のドレスを身に付けている。
あたり一面に満開の赤薔薇が咲き乱れる。
そして、目の前には白のタキシードを着込んだデイヴィッド。
彼はジュリアに微笑みかけると、ポケットから小さい箱を取り出す。その箱をジュリアに向けて開ける。
すると、小さなピエロが飛び出し、ジュリアは「まぁ!」と大袈裟に驚く。
よく見ると、ピエロは指輪を持っており、その指輪には大きなダイヤが付けられている。
デイヴィッドは跪き、ピエロから指輪を取り外す。
そして、ジュリアの左手を取り、指輪を薬指に……。
***
「えへへ、えへへ」
ジュリアは妄想の世界に溺れ、口元が緩み切っていた。
トーマスはその様子を不安げに見守る。
「お〜い、姫様〜、戻って来てくださ〜い」
呼び掛けにジュリアは全く反応を示さなかったが、「あ、そうだ!」と突然、何かを思い出し、勢いよく立ち上がった。
「ねぇ、デイヴィッドはいつ帰って来るの?」
トーマスはジュリアから目を逸らし、さらりと返答する。
「そういう話は休み時間にしましょう」
「休み時間に聞いたら「あー、忙しい、忙しい」って答えてくれなかったじゃない!
ねぇねえ、いつ帰って来るの?」
「おそらく、あと1週間もすれば、きっと……」
「それ、2週間前も言ってた!」
デイヴィッドの帰国時期を尋ねてもはぐらかされて明確な返答はない。ジュリアの不満は募る一方、そんな日々が続いていく。
***
レジナルド・アカデミー初等科の大教室――。
広々とした空間の中で最も目を引くのは、頭上に広がる天井の装飾だった。職人が何ヶ月もかけて仕上げた力作である。
天井の四隅には、天使の彫刻が彫り込まれている。天使達はそれぞれ巻物、砂時計、羅針盤、天球儀を手にしている。
学園創立者が知識や知性だけでなく、道徳や良心を重要視していたことが窺える。
そして、アーチ型の窓が壁一面に連なり、柔らかな日差しが教室に差し込む。窓ガラスは磨き上げられており、一点の曇りもない。
美しく磨かれた木製の机が整然と並び、椅子には座り心地の良いクッションが備え付けられている。
授業の合間の休み時間、ジュリアはその座り心地の良い椅子に身を任せ、ぼんやりと考えを巡らせていた。
帰国したデイヴィッドをどんなイタズラで迎えるか。暇さえあれば、そればかり考えている。
授業開始時刻になり、担任と共に、ある男性が教室に入ってきた。
「え? なんで?」
意外な人物の登場にジュリアは思わず声を漏らす。
その男性の髪はしっかりと整えられている。
深緑色のジャケットを羽織り、肘には革のパッチが当てられている。ポケットから、使い込まれた万年筆が顔を出す。
モノクルをかけ、右手には本を持ち、左手には資料が詰まった鞄を提げている。
豊かに膨らんだ腹部によってシンプルなチェック柄のシャツがぴんと張っている。
そして、満面の笑みを浮かべている。
教室にやって来たのはトーマス=パターソンだった。
ジュリアが通うレジナルド・アカデミー初等科では年に数回、各学年に向けて特別授業が開催される。大学の教授などを招いて易しめの講義を聞くというものだ。
その日は王室専属の教育係であるトーマスが講師として招かれた。
「えー、小学1年生の皆さんにはなかなか難しいテーマですね。
でも、頑張って授業してみます」
授業のテーマは世界情勢。
「皆さんは普段、家や学校でどのように振る舞っているでしょうか?
文句ばかり言っていないでしょうか?」
トーマスが教室全体を見渡す。
「子供の頃を振り返ってみると、私はとてもわがままな子供だったと思います。
自分が置かれた環境に不満を持ち、文句ばかり言っていました。
しかし、様々なことを学び、大人になり、実は恵まれた環境にいたことに気付きました。
人は自分が置かれた環境を当たり前だと思い、ついつい目の前しか見えなくなってしまうものです。
この授業を通して、皆さんの視野を世界規模に広げてもらいたいと思います」
トーマスが本を掲げる。
「この本を参考にして一緒に考えてみましょう」
世界が100人の街だったら――。
それが本のタイトルだった。
「世界を100人に縮めるとどうなるかな?ということです。
まず、街に住む人びと100人のうち15人は太り過ぎです」
クラスで笑いが巻き起こる。ジュリアも思わず笑ってしまった。
「うちのパパも~」と生徒の一人が呟く。
声は大きくなかったが、意外なほど教室に響き、その周りの数人がくすくすと肩を揺らす。
「でもね──」
トーマスは先ほどよりも少しだけ低い声で語りかけた。淡々としたその声は生徒たちの胸に鋭く入り込む。
「21人はご飯をお腹いっぱいに食べることができません。栄養が足りていません」
教室に広がっていた笑い声やざわめきが徐々におさまり、沈黙が広がってゆく。
先ほど冗談を飛ばした生徒も口を閉じ、顔を上げてトーマスを見つめる。
「そして、2人は食べ物を持っていません。
死にそうです」
その言葉に教室の空気は凍りつく。もう誰一人として笑っている者はいない。
トーマスの話は続く。
水、お金、家について。それから文字を読めるかどうか。
「20人は空爆や襲撃に怯えています。命の危機です」
皆、トーマスから一瞬たりとも目を離すことなく話に耳を傾けており、彼の話声以外に物音一つしなかった。
隣にいるクラスメイトが息を吸って吐く音が聞こえるほどである。
「どうでしょう? 少し難しかったかな?」
トーマスは再度、教室全体を見渡す。
「皆さん、これが世界です」
ジュリアは理解した。自分は世界について何一つ理解していないのだと。
トーマスは目を細めて穏やかに語る。
「我が国は水や食糧に恵まれ、飢え死にする人はほとんどいません。
そして、敵に襲撃されることもありません。
実は、我々はとても恵まれた環境で生きているのです。
そのことに、日々、感謝しなくてはなりませんね。
そして、このローズローズ王国に生まれた者には世界に奉仕する使命がある、私はそう思うのです」
授業が終わり、担任の先生が締めくくりの言葉を述べる間も、生徒達の視線はトーマスに向けられていた。
人が成長する瞬間を見るのは、トーマスにとって何物にも代えがたい喜びである。
かつて彼自身も熱意溢れる授業によって人生が変わるほどの衝撃を受けた。生徒達を見つめていると、かつての自分が重なる。
今回の授業は小学1年生には難しいかと思われたが、語った内容が「種」となり、やがてどこかで大きく花開くことをトーマスは予感していた。
しかし、トーマスは気付かなかった。教室の片隅で異質な「種」が芽吹こうとしていることに――。
「たしか、フォークリスタルって国に……」
隅の席でジュリアは呟く。
「フォークリスタルという小国に行こうと考えています」
忘れかけていたデイヴィッドの言葉が脳裏をかすめ、疑問を抱いた。
「どんな国なんだろう?」
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