第19話「別れ」
その時、歩み始めた彼女の背にかすかに声が届く。
「ジュ…アー! ……リアー!」
ジュリアははっとして振り返る。誰の声であるかを瞬時に理解し、振り返ると同時に叫んでいた。
「お母様!」
視線の先には、大きく手を振りながら走る女性の姿があった。髪は風に吹かれ、乱れていた。
胸元の薔薇のペンダントは大きく揺れる。
普段のマリアンジェラならば人前で見せることのない姿だった。
背負っていたバッグを投げ捨てるように地面に下ろし、ジュリアは駆け出した。
二人の距離はすぐに縮まり、互いに笑顔で両腕を広げる。そして、強く抱きしめ合った。
「お母様、来てくれたんですね
ありがとうございます」
マリアンジェラは目を閉じ、ジュリアの背中をそっと撫でる。
「間に合って良かった。
本当に良かった」
やがて彼女は目を薄く開く。
一年前、王を説得したいとジュリアから本心を打ち明けられた、あの日のことが思い出される。
***
赤薔薇の王宮、ジュリアの部屋の前。
「こういう時、フォローしてあげるのが母の務めね」
ジュリアの部屋から出た後、マリアンジェラは白銀の間と呼ばれる王と王妃の居室へと向かった。
夜になると壁に取り付けられた間接照明が、柔らかい琥珀色の光を放つ。
部屋の奥には、二人が寄り添うには十分な広さのソファが設置されている。
ソファの前のテーブルにはランプが置かれており、その灯りがソファに座る二人の影を壁に映し出す。
マリアンジェラは、ジュリアが語った内容に自身の考えを付け加えて王に伝えた。
「……というのがあの日の出来事です。
あの子には状況を深く洞察する力があります。
そして、最善の一手を瞬時に導き出します」
「一瞬のうちにそこまで見通したか。
予想以上だな」
王は腕を組んだまま間接照明を見つめている。
考え込んでいる様子ではあるが、王はすでに結論を出しているのではないか。マリアンジェラはそう感じていた。
しばらくの沈黙の後、王は腕組みを解く。
「お前の言う通り、ジュリアは軍人に向いているのかもしれない。
それどころか、軍人はあの子の天職だろう。
だが、良いのか?」
「ええ、あの子が軍人になることを望んでいますから」
「引き留めなくて良いのか?
もう後戻りはできないぞ」
「あの子は……」
言葉に詰まり、マリアンジェラは目を伏せる。そして、彼女の頬を一筋の涙が伝う。
「ジュリアは大切な娘です。
これからもずっとそばにいてほしい。
私のそばで笑っていてほしい。
これからもたくさん話したい。
でも、あの子は本気なんです。
止められる訳がない。
娘がしたいことを応援するのが母の務めだから」
涙を袖で拭い、マリアンジェラは王を見つめる。長い沈黙の末、王は深く息をついた。
「分かったよ、マリアンジェラ。
私も父として、あの子を応援する」
王がマリアンジェラを抱きしめると、彼女は王の胸で涙を流し続けた。
***
あの日の決断があったからこそ、今、ジュリアは旅立とうとしている。
いや、誰が引き留めようと、どれだけ引き留めようと、この子はおそらく――。
マリアンジェラはそんなことを考えながら、ゆっくりと腕をほどいて半歩下がる。
「いよいよ旅立ちね」
「ここまで来れたのは、お母様のおかげです。
ありがとうございます」
「あなたの努力の成果よ。
くれぐれも無理はしないでね」
「気をつけます」
「あと、イタズラはほどほどにね」
「えへへ、善処します」
ジュリアは頭を掻いて苦笑する。
「それから……」
マリアンジェラはまだまだ話し足りない様子だったが、会話は中断された。
ピピピ、ピピピ、ピピピー。
腕時計型デバイスから発されたその電子音は出発時刻を告げるアラームだった。
「そろそろ行かないと……」
ジュリアが小さい声で告げると、マリアンジェラは小さく頷く。
「そうよね……。
あ、そうだったわ」
マリアンジェラは身につけていたネックレスを外すとジュリアに差し出した。
「ジュリア、持って行って」
「これは、お母様の大切な……。
いただけません」
「大切な御守りだからこそ、あなたに持っていてほしいの」
ジュリアは恐る恐る手を伸ばし、ペンダントをそっと受け取った。
「ずっと大切にします。
どんな時も必ず身につけます」
「さぁ、もう時間でしょ?」
「そうですね、行ってきます……」
「うん、頑張って……」
ジュリアは飛行艇の方へ向き直り、歩き始める。ブーツがアスファルトを打つ音がやけに大きく耳に響いた。
王宮での日々が思い出される。
あれは、何歳のことだったか。まだ幼かった頃。ある冬の日の夕方。
普段の食事ではポタージュが提供されることが多いが、その日は珍しくシチューが出された。
具沢山の家庭的なシチューだった。
大きめにカットされた玉ねぎやじゃがいもがゴロゴロと転がっている。
そして、ニンジンも。
(うっ……ニンジン)
その頃、ジュリアはニンジンに対してかなりの苦手意識を持っていた。
数ヶ月前、甘くソテーされたニンジンが夕食に出された。
一口食べて甘過ぎると思ったが、残すのはシェフに申し訳なく、無理をして食べ切った。美味しい、美味しいと言いながら。
しかし、後で猛烈な吐き気に襲われた。それ以来、ニンジンが食べれなくなってしまったのだ。
その日もニンジンを見た瞬間、シチューにかなりの嫌悪感を抱いた。だが、シチューから広がる香りに誘われて少しだけ口にしてみる。
「美味しい!」
次々とシチューを口に運び、そのままの流れでニンジンも食べてしまった。
「あらあら、そんなに急いで食べなくても大丈夫よ」
マリアンジェラがそう言うと、ジュリアは照れたように笑った。しかし、手は止めなかった。
「だって、このシチューすっごく美味しいの!
おかわりしたい!」
「良かったわ。
ジュリアがニンジンの美味しさに気付いてくれて」
食事の後、侍女頭がジュリアに耳打ちした。
「実は、あのシチューはマリアンジェラ様がルゥから手作りされたのですよ。
市場に出向いて材料を一つひとつ厳選していました。
姫様が苦手を克服できるようにって」
ジュリアはバッグを拾い上げ、少し上を向いて歩く。
そういえば、熱を出して徹夜で看病してもらったこともあった。一晩中、手を握ってくれていた。マリアンジェラとの過去を回想しながら、ジュリアはさらに上を向く。
10年間、訓練することが決まった日は本屋にジュリアを連れて行き、『世界が100人の街だったら』を買ってくれた。
ジュリアはついにほぼ真上を向いて立ち止まる。
本屋からの帰り道、車には乗らず、二人で歩いて帰った。
「ふふふ〜ん。
うえをむ〜いて
あ〜るこ〜う」
「あら? 外国の有名な曲ね。
その歌知ってるわ」
「ホントに? じゃあ、一緒に歌えるね!
最近、トーマスがこの歌を教えてくれたんだよ」
夕暮れの陽に照らされ、二人の影は並んで揺れる。
二人は手を繋ぎ、歩きながら歌った。歌声は綺麗に重なっていた。
上を向いて歩こう。
涙がこぼれないように。
思い出す、春の日。
一人ぽっちの夜。
幸せは雲の上に。
幸せは空の上に。
歌い終わった後、マリアンジェラは語りかける。
ジュリア、あなたはいずれ一人で旅立つことになる。
でも、覚えておいて。
どんな時だってあなたは一人じゃない。
私はいつもあなたと共にある。
どれだけ離れていても、心は常に共にある。
雲一つない快晴だった。どこまでも青く澄んだ空をジュリアは目を細めて眺める。
上を向いたまま歯を食いしばる。
左手に力が入り、爪が手のひらに食い込みそうになる。右手では受け取ったペンダントを優しく包み込んでいた。
母に伝えたい想いを堪え、ジュリアは葛藤していた。
伝えてしまったらきっと私は――。
でも――。
「このままじゃ旅立てないな」
ジュリアは観念し、勢いよく振り返った。
大きく息を吸うと、マリアンジェラに向かって力の限り叫んだ。
「今までありがとー!!!
大好きだよー!!!
お母さぁーん!!!」
マリアンジェラは驚きで目を見開いて硬直したが、次の瞬間には彼女の目から涙がこぼれた。
ポロポロポロポロと涙がこぼれ落ちる。
何度も何度も袖で目を拭い、マリアンジェラは泣きながら叫び返した。
「私も大好きよー!!!
ジュリアァー!!!」
そして、ジュリアの目からも大粒の涙が流れ出す。
「行ってきまーす!!!」
ジュリアは涙を拭って駆け出した。
「頑張れー!!
頑張れー!!
ジュリア、頑張れー!!!」
マリアンジェラは涙を拭い、手を振り続ける。
声援を背に受けながらジュリアは飛行艇に乗り込む。
「少尉、お待ちしておりま……ど、どうなされたのですか?」
「出発してください! 今すぐ!」
「は、はい!」
ジュリアは後部座席に座り、シートベルトを締めた後、終始俯いていた。
お母さん、本当にありがとう。
ありがとう、ありがとう。
感謝はとめどなく溢れ続けた。
そして、マリアンジェラは手を振り続け、飛び立つ飛行艇を見送った。
ジュリア、あなたの母親であることを私は心から誇りに思います。
そして、あなたが世界を平和に導くと信じています。
どうか無事で帰ってきて。
飛行艇が見えなくなるまでずっとずっと手を振っていた。
飛行艇は向かった、泥沼の戦場へ。
そして、彼女は泥沼に咲く一輪の薔薇となる。
読んでいただきありがとうございました!
これで第一章は完結です。
第二章以降の内容も考えてありますので、書き上げ次第、公開いたします。
二年以内に公開することを目指したいと思います。
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