山内麻依⑤
朝から雨が降り、じめじめした季節になった。洗濯物が乾きにくい嫌な時期の到来だ。
長く続く雨。
自分の中での悩みに解決を出せないまま、ここまでなんとなく進んできてしまった。仕事はうまくいっているのにも関わらず、心はじめじめしている。
私はここで一生人を見送っていくのか。
腹の立つ同級生である、白石のこんな世界でという言葉がこんなにも刻み込まれている。彼の存在ではなく、言われた内容が偶然私の悩みにドンピシャだっただけだ。
品出しをしながら、大きく息を吐いた。
「ほらほら、ゆっくりやらないで。揚げ物がまだ揚がってないのだから」
今川さんに急かされて、我に返った。
「すみません、すぐやります」
昼のピークに向けて、ホットスナックを準備する時間だ。レジでは菊川さんがレジ接客の間に次々にホットスナックを揚げている。
やはり採用は正解だった。仕事の覚えが速く、先輩のパートさんとも仲良くやっている。特に気難しい今川さんとも親しく話せるのはありがたい。私に対しても過去の話は持ち出さず、副店長として話を聞いてくれる。
「最近調子悪いの。動き悪いよ」
横で今川さんが更に急かす。
うるさいな。手伝いに来てやっているのだから、静かにしていろ。
「すみません。なんか寝つきが悪くて」
気持ちに嘘をつき、理由を付けて謝罪した。ここで関係性を悪くしたくない。腹は立つが、今は我慢しよう。
「梨々花ちゃんが入社してくれたから何とかなっているけど、頼むよ副店長」
イラっとする言葉を次々に。
弁当を並べることに集中した。調子が悪いのは間違っていない。そのため、重い体を気力で動かしているのだ。今川さんの皮肉に付き合うと、とてもじゃないが精神が持たない。
「すみません、今川さん。ちょっと聞いていいですか」
横から大きな声がした。菊川さんに呼ばれて、今川さんが私から離れていく。
助かった。
溜息をつくと、遠くから心配そうにしている菊川さんの視線を感じた。彼女は私の心配をして、わざと離してくれたに違いない。
作業を終わらせると、事務所に戻った。
今日は特にしんどい。眠れていないのは確かで、最近は作業に身が入らない。こなせているのは今までの頑張りと茜のフォローのおかげだが、このままではいけないと更に焦ることで夜中に目が覚めてしまう。
勝手に悩んでいるだけ。別に仕事をためているわけではない。それどころか、菊川さんの入社で新浜さんの枠がしっかり埋まっている。それどころか彼女は売込みがうまく、売り上げも順調に伸びている。
事務所の引き出しを開けて、頭痛薬を出した。最近は量が増えているので控えていたが、ここを乗り切りたい。
スマートフォンが振動している。もうこの時間か。
「もしもし」
「ごめんね、麻依ちゃん。今大丈夫」
茜の声に安心感を覚える。中々店舗に行けない彼女の対応として、空き時間にこうやって電話をくれるようになった。彼女と小さな出来事を話すだけも、私としては気持ちが楽になるのでありがたい。
「大丈夫だよ、ありがとう」
「具合悪そうだったから、心配していたよ。最近は眠れているかな」
「いや、正直しんどい」
素直な気持ちを口にした。こんな話が出来るのは茜くらいだ。好きに働かせてくれている家族には不満は言えない。
「そうか・・・力になれなくてごめんね。でも、無理はしないでね」
言葉を詰まらせながらも、私を元気づけようとしている。その気持ちだけで充分だ。
「うん、茜ちゃんがこうやって話してくれるから元気になっているよ。本当にありがとう」
「明日は少し時間あるから、これからのお店のこと一緒に話そうね。麻依ちゃんは充分頑張っているから、とにかく心配しないでね」
「ありがとう。この後に色々あるから、明日直接話せるのは助かるよ」
「そうなのね。わかった」
深く聞こうとはせずに、ここで話は終わった。内容の無い会話でも助かる。話にあった通り、今日はこの後に北村の相談を受けることになっている。その前に、菊川さんとも話をしなければならない。
ユニフォームを脱ぐと、カーディガンに袖を通した。しばらく休もうと、駐車場に向かった。
黒の古い軽自動車に体を収めると、エンジンをかけて目を閉じた。シフトの交替時間まで体を休めることにした。正社員はシフトで働いているわけではない。いきなりの出勤もあるのだから、こうやって休憩をとるのも問題はない。
なぜか、体調が最近はよくない。充分な睡眠がとれていないのが原因だ。夜に何度も目が覚めてしまう。
完全にストレスは増していた。仕事を進めれば進めるほど、自分の居場所に悩んでいく。沼にはまったような気持ちだ。褒められても、みんなから前向きな言葉をもらってもガスの抜けた風船のように気持ちは満たされない。
そろそろ時間か。
薬が効いたのか、少し睡眠をとったのが良かったかはわからないが若干だが回復した。
伸びをしてから、車を降りた。
今日は少しだけ遅くなると話して、義実家へのお迎えを夫の浩紀に任せた。しかし、私も義実家に来るように言われていた。普段はそんなことがないので、何を言われるのか不安になっている。
深く考えないようにしよう。今日は話を聞いて、情報を集めるのが先決だ。そう自分に言い聞かせることで、ストレスを減らす。
勤務シフトの入れ替えの時間のため、引継ぎ事項を話して午後のパートさんは事務所を出ていった。その数分後に、午前のパートが上がってきた。
「お疲れ様、副店長大丈夫」
事務所に入るなり、今川さんは訊ねた。呆れたような表情だが、口調は低くて落ち着いている。
「すみません、少し車で仮眠取っていました。おかげで、少しは良くなりました」
「最近異常だよ。無理なら、病院行ってきなよ。倒れられても困るし、そうやって体調悪いままだと、みんなも心配するでしょう」
口は悪いが、心配はしてくれているようだ。ありがたいが、たとえ病気だとわかったところで休めるわけでもないので病院にいく意味を感じない。
「ご迷惑をおかけしている自覚はあります。申し訳ございません」
うまい言葉を考えられず、元気のないまま返事をしてしまった。
「いや、私たちもフォローはするから。まずは体を大事にしなさい」
「ありがとうございます」
私の態度で、今川さんはいつもの調子で話をできないと感じたのか、それ以上の追撃はなかった。気にはしてくれているのだろうが、皮肉の一つくらいは言いたかったに違いない。
みんなが荷物をまとめたあたりで、菊川さんが遅れて戻ってきた。勤務が終わった後に、店内の商品を綺麗に前出ししていたようだ。最近はよくそういう姿を見るが、勤務終わった後にやらなくていいと断っていた。
「お疲れさまでした」
「菊川さん、売場の前出しは上がった後にしなくていいですよ」
「ごめんなさい。新商品とかが気になって勝手に触っているだけなので、気にしないでください。おいしそうなスイーツがあったので、帰りに買っちゃおうかな」
気を遣ってくれているのはありがたいが、他の人への配慮もある。少しずつ理解してもらうしかないようだ。
「いつもお気遣いを頂き、本当に助かっています」
「いえ、むしろ私みたいな人間を雇っていただいたのをすごく感謝しています。この職場も明るい人が多くて楽しいです」
ユニフォームのファスナーを下ろしながら、彼女は笑顔を見せた。事務所に人がいてもいなくても、彼女は絶対に敬語を崩そうとしない。あの時に約束した、以前の関係をここでは出さないというルールを守ってくれている。
白のTシャツの上に水色のカーディガンを着ると、髪留めを外した。みんながまだいるのだが、このままでは帰られてしまう。
「あの、菊川さん、この後少しお時間いいですか」
周りを見返して、彼女に話しかけた。一瞬彼女は考え込んだが、何かを察したように頷いた。みんなと楽しそうに話している姿が新浜さんと重なってしまう。
しばらくして、他のパートが事務所を後にした。話を遮ると雰囲気が悪くなるので何も言わずに待っていたら、三十分も経過していた。
「すみません、遅くなってしまいました」
「いえ、菊川さんが伸ばしていたわけではないので」
なるべく待たされたイライラを出さないように注意した。この後の話にも悪い影響を及ぼしかねないので、表情には気を付けたいところだ。
「先ほどもお話しましたが、沢山お気遣いを頂いて本当に助かっています」
「そんな、当然のことをしているだけなので」
手を大きく横に振って、彼女は控えめに答えた。
「今川さんもいい人なのですが、人の好みもある方でうまくコミュニケーションを取ってくれてよかったです」
「まあ、でも面倒見はいい人で私も助けて貰っていますよ」
悪口になりそうな話なので、お互い言葉少なに話した。ここまでは、私が菊川さんに感謝しているのが伝われば問題ない。
さて、本題に入るか。
「まだ入社して間もないのですが、とても大きな戦力になってくれています。それでですね、あの、今後のことを話そうと思いまして」
話す内容まで決めていながら、歯切れの悪い話し方は治らない。茜にまたからかわれそうだ。
「今後のことですか」
「いきなりとは言わないですが、発注や店舗に関わる業務を覚えてもらって、ゆくゆくはリーダーや社員を目指してみないかと思いまして」
入社して数か月でこの話は早いが、彼女の仕事の覚え方なら問題ない。ここまで出来る人なら、他で正社員登用を目指して抜けられる前に店舗社員として働くことも選択肢に入れてほしかった。
「あの、まだ私そこまで仕事も覚えきれていないので」
本来ならもう少ししてからこういった話はしたいところだが、今の精神状態では一人で運営をするのが非常に厳しい。仕事上の戦力として期待する以上に、気持ちの面で支えてくれる人を求めていた。
やはり、新浜さんの存在は大きかった。
壁にぶつかることを恐れて逃げ続けた私を、彼女は叱咤して動かしてくれた。意見をぶつけ合っていく中で、私を理解して助言をくれた。もちろん、茜だって今も一緒にやってくれているが、彼女はこれから先もずっと隣にいることはできない。
菊川さんに甘えるつもりはないが、一緒に目の前の課題を考えてくれる存在が欲しかった。これから先にある、茜との別れも考えての話だ。
「そうですよね。いきなりすべての業務を出来るようになろうというわけではありません。私としては、菊川さんとこれから一緒にお店を盛り上げていければと思ってお話をしただけですので」
本音を言えない分、決め手に欠ける話の仕方になってしまう。ここで彼女に話を切り出すのは時期尚早だった。今更に後悔を覚える。
「お気持ちはすごくありがたいです。ただ、私はまだ入社したばかりで深くこの仕事を理解できていません。その中で店舗の事となると、お話が飛躍している気がします」
「そうですよね。失礼しました」
「謝らないでください。お話はすごくありがたいです。私も頑張りますから、副店長は遠慮しないで仕事を振ってくださいね」
人選は間違えていない。彼女の受け答えで確信した。だからこそ、タイミングを間違えて逃してしまうわけにはいかない。
軽率だった。気持ちが落ちているときの判断は気を付けないと。
茜との関係はよくなりつつあるが、まだ話せていないことが多い。すっと息を吐いて、菊川さんの顔を見た。
「これからもよろしくお願いします。お時間を頂きまして、ありがとうございました」
一件目は失敗。彼女が事務所を出ると大きく溜息をついた。理想通りの流れにならないのは想定していたが、変にプレッシャーを与えて距離を置かれる危険が充分にある。
アルバイトやパートの雇用形態は、正社員登用の私たちほど深く自身のキャリアを考えているものではない人が多い。そのため、このような話が必ずしも前向きな反応を得られるということも一概には言い切れないのだ。
所詮、アルバイトだよ。
同級生に言われて、心の中が真っ黒になって締め付けられた言葉を思い出す。手っ取り早くお金を稼ぐためのアルバイトに、そこまで力を入れる必要なんてない。必死にこの店舗で働く私を否定する言葉だった。
「山内さんは、すべてに全力。私も学生時代はそうだったから、気持ちはすごく理解できるよ。大丈夫、この頑張りは必ず山内さんにとっていい経験になるから」
放課後の委員会の後に、教育実習中の鈴本先生がかけてくれた。悩んでいる私にとって救われた言葉だ。あの時の気持ちが今に繋がっている。
鈴本先生が菊川さんになっても、心は同じはず。今日はうまくいかなかったけど、私の気持ちを伝えれば考えてくれるはずだ。
ぬるくなったコーヒーを喉に流し込んだ。反省は一旦保留。次に備えるために仕事を終わらせることにした。
夕方までに仕事を終わらせると、いつもより早めに事務所を後にした。ここで話す内容ではないということで、三号店の裏の事務所を借りていた。北村も自転車で行動をしているので、三号店までは自力で動ける。
慣れた道を車で走るが、夕方の帰宅渋滞に巻き込まれて車が進まない。特に予報が外れて突然雨が降ったせいで、お迎えの車が駅に向かって渋滞を更に長くしている。こうやってうまくいかない日は、とことんついていない。テンポよく動くワイパーをぼんやり見つめながら、ゆっくりと目的地へ向かった。約束の時間は午後六時半。余裕を持った時間設定にしたのが吉と出た。
午後六時を少し過ぎたあたりで駐車場に到着した。事務所は私が使うと話していたので誰もいない。普段は伊佐山店長が仕事をしている時間だが、他の店舗にいるのだろう。電気をつけて、いつも会議の時に座る席に腰かけた。
悩み相談だが、何が来るのかは読めない。うまくいかない仕事の話はその場でする関係だし、大学の相談をされても私では応えられるかわからない。こんな時には茜がいて、困ったときは横で相談のアドバイスをくれた。今日は頼もうか悩んだが、結局話すらできないまま今日を迎えた。
約束の十分前に、北村が入ってきた。羽織っているカッパを脱ぐと、袋の中にしまい込んだ。大学の後なのか、リュックを背負っている。
「すみませんでした」
「約束の時間に間に合っているのだから、謝らないで」
「いえ、だって私に合わせて夕方でしかも今日って・・・」
「だから、大丈夫だよ」
何かを言いかけていたのを遮った。
「北村が困っているなら、早めに状況は聞きたいの。私が自分で調整しているから、北村は心配しないで」
安心させようと、無理やり笑顔を作った。
「わかりました」
若干元気がなさそうだな。彼女は、私の目の前の席に腰を下ろした。
「それよりも、あなたの話を聞かせてよ」
「はい・・・」
彼女から話をしたいと持ち掛けていたのに、実際に話すとなると黙ってしまう。
「大丈夫、あなたへの信頼は変わらない。むしろ、私を気遣って隠される方が嫌だなあ」
相手が緊張しているので、口調を緩めてみた。彼女の表情がこわばっているので、まるで取り調べをしているように見える。空気を変えないと、彼女は本音を話せないはずだ。
「あの、信じにくいと思いますが・・・」
「だから、大丈夫だよ。長い付き合いでしょう。あなたの表情観たら、冗談で話に来たなんて思っていないから」
「すみません」
一度大きく息を吸い込み、目を閉じる。覚悟を決めたようだ。私は手元にあるコーヒーを口に含んだ。
「須永さんなのですが、最近距離が近くなりすぎて、困っていまして・・・」
「須永さん。どういうこと」
夕方と深夜に勤務しているフリーターの須永。三十代半ばで声優志望。事務所には所属していたらしいが真意は不明の長髪細身の男だ。表向きな性格は大人しく真面目で、本業がほとんどないに等しいのか欠勤も遅刻もない。
ただ、恋愛体質なところがあり、数回シフトで一緒になっただけの新浜さんに惚れてしまい、彼女が退社する際に告白をしてふられている。茜にも気があるらしく、連絡先の交換を持ちかけて断られていた。その際には、流石に私からも注意した。
「今までは優しい先輩だったのですが、最近頻繁にチャットが来るようになって。それ以来、勤務している際に彼氏のような話しかけ方をしてきて困っています。でも、どうやって接していいかわからないので・・・」
ある程度年齢の高い女性に惚れるところがあったので、高校生の北村にはちょっかいを出さなかった。それに、他の女性従業員からも報告はなかったので安心はしていたが、裏ではそんなことになっていたのか。
何やってくれているのか。
溜息をついた。せっかく収まった頭痛が再来してきて、こめかみを抑えた。
「すみません」
「北村が謝る話ではないよ」
しかし、新浜さんや茜と違って自分で対処できない人間にちょっかいを出すのは、流石に許せない。しかも、こうやって相談に来てくれたからよかったが、ひどいときは退職騒ぎになる。
若い従業員は男女関係なく、ご両親から託されていると考えている。変な理由での退職は、これからの人生にもいい経験にはならない。
恋愛関係のもつれは何度か経験した。付き合い始めて仕事に支障が出ると、周りの従業員から苦情を言われて対処を迫られた経験や、こういった一方的な感情のもつれも副店長になって何度か対応をしている。面倒だが、この辺りは私の仕事だ。
「対応はするよ。働きにくいでしょう」
「でも、私が話したのが須永さんに伝わると困ります」
「そうだよね。それなら直接的な解決手段はとれない分少し時間かかるけど、いいかな」
北村は下を向いた。
「ご迷惑をおかけして、ごめんなさい」
「いいの。それ以上に助けてもらっているから。北村は私のことを気遣い過ぎだよ。私も副店長になってもう何年も経つのだから、大抵の案件なら負担なく乗り切るから」
笑顔を作って見せた。北村の表情が緩くなる。
「ありがとうございます。私、本当にこのお店で副店長と働けてよかったです」
そう言って、彼女もコーヒーに口を付けた。
「そういえば、まだ言えていなかったです。副店長、お誕生日おめでとうございます」
「えっ」
「確か今日だったはずです。昨年中西さんと一緒に朝礼でバースデーソング歌ったのを覚えていたので。あれ、みんなで歌って驚く副店長が可愛くて」
楽しそうにケラケラ笑う彼女を見ている視界が真っ白になる。背中から冷たい汗が流れた。そういえば、今日はいつ帰るのか浩紀がずっと聞いていたのは、まさかこのことか。
毎日の対応に追われて、誕生日は考えていなかった。もしかしたら、何か用意してくれているのかもしれない。
「あ、ありがとう。完全に忘れていたよ」
私の表情に気が付いたのか、北村の表情も変わった。
「私からの話はこれで終わりですので、あの、副店長早く帰った方がいいですよね」
昨年の私も誕生日も、浩紀が颯と一緒に彼の実家で誕生日を祝ってくれた。その写真を北村には見せていた。
「あの、すみません。こんな日に・・・」
「大丈夫、今日は浩紀も残業だから明日になりそうな予感。さっきも会議が延長するって連絡あったから。何年もすると、こんなものよ」
その場のアドリブで嘘を作り上げた。彼女の性格を考えれば、せっかく話してくれた経験を悪い気持ちにさせてはならない。
「本当ですか」
「嘘はつかないよ。でも、颯を迎えに行かないとだね」
そう言って、その場は焦る様子を見せないようにふるまった。本音はすぐにでも全力で帰りたい。背中に嫌な汗をかいて気持ちが悪い。
「今日はお時間を頂いて、本当にありがとうございました」
彼女は深々とお辞儀をした。
「いいのよ。何かあればこうやって話してほしい。約束だよ」
「はい」
彼女の表情に明るさが戻ったので、この話し合いは成功だ。一勝一敗。成果としては悪くない。菊川さんの件は、改めて作戦を考えよう。
それにしても、話はうまく引き出せたが、思ったより面倒な話題だった。対応を間違えれば、退職の発生などリスクのある案件だ。須永のやっていることへの注意さえすれば、彼にも勤務は継続してもらいたいのが本音だ。別に北村も彼にひどい嫌悪感を抱いているわけではない。
小走りで駐車場に行くと、エンジンをかけて車を走らせる。スピードを出したい気持ちを抑えながら、安全運転を心掛けた。
こういうときに限って、信号によく掴まる。赤信号になる度に、舌打ちが自然と出てくる。
嫌がらせか。腹立つな。
眉間に皺が寄っているのに気が付き、指で延ばした。
チャットには、残業など書かれていない。むしろ、いつ帰ってくるのかという連絡が数件入っていた。なぜ、返答しなかったか。今更に後悔が滲んでくるが時は戻せない。
彼の実家に着いたのは午後八時前だった。この時間には、いつもはお風呂に入れて寝る準備をさせている。いつも通り、インターフォンを鳴らした。
「はい」
「すみません、遅くなりました」
「麻依ちゃんね。今行くね」
義母の声はいつも通りだ。怒っている感じはしない。サプライズなど考えず、普通の日であれば何もないはず。嬉しいはずのイベントがなければいいと思う矛盾した気持ちが生まれている。
「随分遅かったね」
「ちょっと仕事が長引きまして。もう、二人は帰りましたか」
義母の表情が曇った。嫌な予感がする。
「待っているわよ。入って」
またもや、視界がぼやける。
リビングには料理が用意されているが、その横で颯が眠っており、スーツ姿の浩紀が私に気付いて目を細めた。
「あの、ごめんなさい。ちょっと・・・」
「忙しいのは分かっている。でも、今日は颯も楽しみにしていた。チャットも確認できないのか」
言い返すことが出来なかった。体調不良、仕事で仕方なかった。言い訳は沢山あるが、ここまで応援してくれた家族に、それは言いたくなかった。それに、自分がしたことを一番許せないのは私自身だ。
「ごめんなさい」
浩紀は溜息を吐いた。
「もういい。颯は連れて帰る。仕事をするのは反対しない。サプライズも勝手にこちらがしたことだから責めるつもりはない。でも、母親である麻依として、今日の行動は正しいのか考えてほしい」
立ち上がり、眠っている颯を抱えて浩紀は先に出ていった。本来は私の車で帰るはずだったが、義父が車を出してくれることになった。
「麻依ちゃん、気にしないで。颯君があなたのお祝いを頑張って準備していたから、思うところがあったのよ。仕事大変なのは充分理解しているから」
必死にかばってくれる義母にも、申し訳ない気持ちで一杯になる。私へのプレゼントや颯が書いてくれた似顔絵が部屋の隅に置かれている。本当は幸せで泣いていたはずの部屋で、私は後悔に苛まれている。
「お義母さん、私が間違っています。一番大切な家族の気持ちを無視していました」
「麻依ちゃん、自分を責めないの。あなたは頑張りすぎると周りが見えなくなるでしょう。浩紀も充分わかっているから心配しないでね」
そう言って、頭に優しく手を置いてくれた。暖かい手が触れて、涙腺が刺激される。泣いてはいけない。泣いてしまったら、まるで私が悲劇のヒロインみたいになってしまう。
「お義母さん、わがまま言っていいですか」
「いいわよ」
「このお料理、ここで食べていっていいですか。せっかく作ってくれたのですよね」
「わがままじゃないでしょう。もちろんよ。この生姜焼きは浩紀が作っていったものだから」
私の大好物を普段料理しない夫が必死に作ってくれた。それだけで涙が出そうだ。ただでさえ、心身が弱って感情的になっているのに辛い話ばかり。
「ありがとうございます」
「座っていなさい。疲れたでしょう」
「いえ、私にも用意させてください」
「いいの。それより、颯君の似顔絵でも見ていなさい」
そう言って、料理を温めに義母が消えて、部屋に一人取り残された。
あああああああ。もう最低。
膝から崩れ落ちた。場所を考えなければ、大声で騒ぎまわりたい。それくらい最低な状況だった。
全部自分、全部自分の責任。私が未熟だから。私が迷っているから。
偉そうに何か知ったような顔して、従業員に指示を出して勘違いしていたのだ。逃げ出したい。全部捨ててしまいたい。無知で未完成な人間だと思い知ったうえで、これからみんなの前にどんな表情で立てばいいのだ。
数分すると、義母は戻ってきた。温めた料理をテーブルに置くと、目で合図をした。吸い込まれるように、私はテーブルの前に座った。
生姜焼きにコロッケ、野菜の煮つけと炊き込みご飯。すべてが私の好きなものしかない。お腹も空いていたので、悲しさもあるのに自然と食欲がわいてくる。
「時間も気にしないでいいから、ゆっくり食べなさい」
「ありがとうございます。いただきます」
一度手を付けると、本当に遠慮なく箸を進めた。どの料理もおいしい。これを家族で食べたかった。
「おいしいかしら」
「はい・・・おいちい・・おいしいです」
「食べながら泣いて。大忙しね」
まるで子供のように泣きながら食べる私を見ながら、義母は母親のように微笑んだ。
「ごめんなさい・・・私、母親なのにみんなに迷惑かけてばかり」
「麻依ちゃんは母親でもあるけど、その前にまだ若い女性でしょう。私も同じ年の頃は知らないことだらけで、叱られたり傷ついたりしていたものよ」
ぐしゃぐしゃに泣きながら、それでも食べるのをやめない失礼な私に優しく語り掛けてくれた。小さな頃叱られたときも、実の母も私にそうやって接してくれた。
「でも・・・私母親だし、副店長だし・・・だから・・・」
「だから何。母親になっても未熟なのは変わらない。失敗を繰り返しながら、母親になっていくものよ。副店長だってそうでしょう」
そう言って、颯の似顔絵を手に取った。
「ほら、颯君の絵についているあなたはいつもユニフォームでしょう。彼に映るあなたは格好いい副店長の姿なの」
「そんな、私は」
「だから、そうなればいいだけ。焦らないの」
「お義母さん、あああ」
箸をおいて、私はありったけの涙を流した。迷いもいら立ちも、この涙で流してしまいたかった。