山内麻依④
最悪の週末を過ごした月曜日。テンションを上げろという方が無理というものだ。だが、パートさん連中の前でそんな姿を見せようものなら、いらぬ詮索をされて更に立場を悪くする。
みんなが来る前に、事務所の鏡で笑顔を作り上げる。どんなことがあろうと、私はこの店の副店長。責任者としての役割を演じなければならない。無理やり口角を上げて、鏡の前で慣れたように『副店長山内麻依』を作り上げる。
ひどい頭痛は我慢するしかないが、同級生の白石とした話が蘇り不快感が拭えない。気持ちを変えるはずなのに、同窓会への参加が後悔しかない。由奈に会うだけならば、別の機会にいくらでも会える。
結局あの日に得たものはないどころか、更に自分を嫌いになってしまった。単純な人間だとわかっていたが、あの程度の煽りに感情的になってしまうなんて。
せっかく作った表情が崩れているのに気が付き、口角に指をあてて無理やり上げた。
ああ、帰りたい。布団の中に入りたい。
おそらく生理も近いのか、気持ちが更に安定しない。ここで仕事から逃げたら、今までのすべてを失う。その気持ちだけが私をしがみつけている。
「おはようございます」
午前シフトのパートさんが、次々に事務所に入ってきた。私は挨拶を返して、事務所のデスクに座ってパソコンに目を通した。
「宮田さん」
準備を終えたパートの宮田さんに話しかけた。彼女は大人しい性格に加えて、判断を周りにゆだねる癖があった。以前の私からすると面倒な人と思って邪険にしてしまった時期もあったが、彼女の真面目な性格に何度も助けられた。
「おはようございます」
「週末のデザート、売れていましたよ。特に、宮田さんのおすすめのシュークリームが目標達成してくれたおかげで、販売が大きく伸びました」
シフトが終わる度に彼女がデザートを購入しているのを見て、発注をしないか提案をしていた。最初は戸惑っていたが、真剣に悩みながら売場を考えてくれたおかげで、今は大きくデザートの売上を伸ばしてくれている。
「本当ですか。よかった」
言葉少なだが、喜んでくれているのは充分伝わる。発注を始めてから、娘を連れてスイーツ店へ足を運んで品揃えを考えてくれている。ここまで真面目に頑張ってくれている分、彼女の頑張りが数字に出ているのは自分も嬉しい。
「宮田さんに任せてよかったです。いつも、ありがとうございます」
「いえ、副店長がフォローしてくれるおかげです」
そういう言葉が一番うれしい。胸が熱くなった。
「ありがとうございます。これからも、沢山挑戦してくださいね。私も一緒に頑張りますから」
「あの、副店長」
ためらいながら、宮田さんがこちらを見た。
「どうしましたか」
「実は娘が進学して、アルバイトを探していまして。それで、うちで働けないかと」
この店舗では、既に親子で勤務してくれている従業員がいる。宮田さんも職場を信頼してくれてお願いしてくれているはずだ。彼女の娘なら、お願いされなくても欲しい。
「ありがたい話です。あの、働きたい時間はわかりますか」
「出来れば、学校の終わった夕方です」
やはりこの時間か。現在、この店舗の夕方の時間はシフトが埋まっている。欲しい人材とはいえ、人件費の予算を超えた採用はできない。しかし、この人材を手放すのは非常にもったいない。
「わかりました。少し調整をしたらお話させてください。宮田さんの娘さんなら是非ともほしいのですが、シフトの確認が必要なので」
「お手数をおかけして、申し訳ございません。副店長、忙しいのに」
「いいえ、嬉しいお話です。元気が出ました」
彼女の遠慮がちな性格を考えて、気を遣わせないように表情を意識した。本心から、嬉しい話を頂いたので消極的になられるのは困る。
パートたちが売場に出ていくのを見送り、椅子に深く腰をかけた。いい話を聞いて、先ほどよりは気持ちが上向きになっている。出勤時に購入したボトル缶のコーヒーを開けて、口に流し込んだ。
こうやって、大きくはないが一歩ずつ前進はしている。職場の安定性も出てきて、一人ずつの努力が売上の向上につながっている。そして、前進している要因に私の仕事の変化も含まれているはずだ。
従業員への接し方、他の店舗よりも商品を売る力。この能力は誰もが持っているものではない。それに、誰もが出来るようになる能力でもない。自惚れてはならないものの、自信は持っていいはずだ。
白石に馬鹿にされたときに、本当に自信があるならあんなに熱くなっていない。
答えのない悩みに辟易する。いつになったら、このくだらない悩みへの解決に至るのだろうか。どう考えていようと、私が他の世界に進む未来は一ミリもない。家族もいて、職責も背負っている。なんといっても、路頭に迷いかけた私に手を差し伸べてくれた伊佐山店長にも加藤さんにも恩を返し切れていない。
いつも通り、発注を済ませて週末の販売データをまとめる。次週の営業スケジュールや新商品に目を通して午前中を終えよう。止まってはいられない。やることは膨大にある。
「副店長、面接の約束した方が来ているけど」
十一時前に、今川さんが事務所に入ってきた。一瞬質問の意味を理解するのに時間を要した。手帳を確認すると、面接の予定を確かに私が入れていた。
「ごめんなさい、少し待って頂いてください」
「だらしないよ、副店長。売場で待ってもらうから」
呆れたような表情で、今川さんは出ていった。構っている暇はないので、軽く頭を下げると急いで机の上のものをデスクの引き出しにしまった。面接のシートを人事書類から乱雑に数枚とると、バインダーに挟んで準備完了。鏡で身だしなみを整えると、事務所から出て迎えに行った。
「お待たせいたしました。どうぞ」
化粧気の少ない、二十代後半か三十代前半の女性だ。細身だが、大きな目が印象的な綺麗な顔立ちをしている。
事務所に案内して、椅子に座ってもらった。
「改めまして、副店長の山内と申します。本日はご応募ありがとうございます」
私が自己紹介をすると、眉毛が少し上がった。ハンドバックから、彼女は履歴書を渡した。封筒に入っており、開くと綺麗な字で経歴が丁寧に記載されている。
この業界にいると、この当たり前が当たり前ではない。彼女の所作を見れば、社会人経験があるのが一目でわかる。この人はあたりだ。勝手に分析を進める。
「菊川梨々花と申します。よろしくお願い致します」
きれいに頭を下げた。この時点で採用を決めてもいい気分だ。ただ、胸のあたりに小さな針が刺さるような印象がある。
この人、どこかで会ったことあったかな。
視線を逸らす仕草に違和感を持っているが、名前に何か覚えがある。別にそこまで珍しい名前ではないので、他の記憶が混同しているだけなのかもしれない。ただ、雰囲気含めて引っかかるものがあった。
「履歴書の確認をします。今ご紹介いただいたのに、申し訳ございません。お名前、生年月日をお答えいただいてよろしいでしょうか」
一度だけ経験したが、身分を偽って面接を受ける人間がいた。あとで聞いた話だが、近くの店舗で働いていた際に金銭の窃盗をしていたらしく、身分と名前を変えれば入社出来ると考えたらしい。
答えた際に間違えがあり、挙動のおかしさで不採用にした。あとで聞いてぞっとしたものの、入社登録で記載状況のエラーがあれば、給与振り込みのシステムに異常が出る。短絡的な行動しかできない人間は、こういう仕組みの理解がないようだと勉強になった。
「はい、菊川梨々花。生年月日は・・・」
話を聞きながら、履歴書の内容を目で追った。内容に相違はないが、目に入った履歴が気になった。
「菊川さん、教師だったのですか」
不安そうな視線を私に向けた。
「あの、山内麻依さんですよね」
今言ったじゃないか。そう思ったと同時に、話していないはずの名前を言われて違和感の理由がわかった。
「もしかして、増本先生ですか」
「そうです。まさかここでお会いするなんて」
嬉しいとは思えない表情で、彼女は答えた。
増本梨々花。私が高校三年生の時に、少しの期間学校に来た教育実習の先生だ。まっすぐな性格で、出来ることは少ないとわかっていても私たち生徒の立場でよくお話を聞いてもらったのを覚えている。短い期間なのに、寄せ書きを集めた色紙をクラス全員で準備して渡した。彼女はそれを受け取り、感極まっていた。
「お久しぶりです」
「あの、そうですね・・・」
なんとなく彼女の気持ちが読めたので、私は息を吐いた。
「話したいことは一杯あります。私もクラスのみんなも増本先生には感謝していますから。でも、今日は面接ですのであくまでも応募者と副店長の立場は崩さないで進めましょう。それでいいですか」
冷たく聞こえたかもしれないが、このくらい言った方が私の気持ちが伝わると感じた。私自身の立場としても、学生時代の関係を持ち込まれるのは困るのだ。
「はい、むしろその方が助かります」
目の色が変わった。最初の表情は先に私に気が付いたからだったようだ。
「では、面接に戻ります。志望動機を聞かせてください」
どの人間にも等しく、決まった質問をしている。私の勝手な価値観で判断するのを防ぐためだ。面接シートに必要事項を記載して、面接終了後に一度見直して考える。
増本、ではなく菊川梨々花さん。二年間の教員生活を退職後、数年間は実家暮らしをしながら子育てをしていた。現在は離婚して実家に住みながら仕事を探していたらしい。
実家は出ていく必要もないため、そこまで金銭的な不安は抱えていないが、両親にばかり頼ってもいられないと仕事を探し始めたと話していた。詳しい離婚の内容や子供の話は聞いていない。仕事に必要な内容以外は、基本的には聞かないようにしている。
金額面での縛りが無いので、勤務日数が最初に確保できなくても問題がなさそうだ。週三回は確保できるが、もし彼女が生活費全般を稼がなければならない立場なら明らかにこの店での勤務では足りない。
受け答えの状況や話し方を考えても、欲しい人材だ。真面目に勤務をしてくれると今までの私の経験値からも推察できる。しかし、彼女が以前の教育実習生という関係がなんとも引っかかる。別に接点もそこまであるとはいえないが、頼っていた人間が自分のもとで働いてもらうのは気が引ける。
さて、どうしようか。
こういった場合、気軽に茜に聞いていた。それが今はできない。彼女は忙しいのに、こんなくだらない話は辞めた方がいいに決まっている。
宮田さんの件もあるので、加藤さんに話すことにした。スマートフォンから、加藤さんに電話を掛けた。
「お疲れ様です」
「麻依か、どうした」
昔から落ち着いた話し方で、兄のような気持ちで気軽に電話をする関係だ。相談だけではなく、小さな愚痴も話せる。
「シフト関係の話なのですが、今大丈夫ですか」
「ああ、どうした」
宮田さんと菊川さんの話を簡単にした。菊川さんはもし加藤さんの勤務している二号店で人が足りないなら、そこで勤務という話もあった。
「そうか、宮田さんの話はこちらも夕方に足りないシフトあるから、掛け持ちでもらえるなら欲しいな。ただ、その菊川さんの話はこちらも昼は埋まっているからな」
「そうですか。では、宮田さんの方は打診してみますね。真面目な方の娘なので問題ないと思います。面接は私で進めますね」
「麻依の面接なら信用できるから、よろしく」
そう言って、電話が終わった。あわよくば、菊川さんを加藤さんのところにと思ったが、それはできなかった。
面倒臭いな。
気持ちが乗らない日とあって、更に憂鬱になった。出来れば、こういう日は何もなく一日を終えて帰りたかった。早く、愛する息子の顔が見たい。
迷うが、店舗の状況を考えるなら、採用の一択だ。子供の急な発熱にも対応できる環境は、この年齢の方には非常にありがたい。それに、知っている人間はデメリットばかりではない。知られている限りは、変な理由での退職といった突然の離脱がしにくくなる。
そうしたら、採用かな。
溜息のように息を吐くと、固定電話の受話器を上げた。