山内麻依⑧
家で待たせている家族も気になるが、今は信頼している従業員の真実を知りたい気持ちが勝って、時計からわざと目を背けた。
北村は何か話すのかと構えたが、リュックを探り始めた。一緒にいてくれている茜も、不思議そうに彼女の様子をうかがっている。
想像よりも時間はかかったが、ここからは真実が明らかになる。明らかにおかしい恋愛トラブルはなぜ起こったのか。小さな事件とは言え、主力従業員を巻き込んだ事案が解決するのは大きい。
ゆっくりと茶封筒をテーブルの上に置いた。
「すみませんでした」
「これは何」
茜も首を傾げた。他の従業員にはこの時間は入って来ないように言ってあるが、作業の関係上そろそろ危ない気がする。
「二ヶ月ほど前にコピーをしにくるおじいちゃんから、拡大コピーのやり方を聞かれました。一緒にコピーを取った後におじいちゃんがコピー機の荷物置きの上にこの封筒を忘れていきました」
茶封筒は市販のもので、中身は見えない。
「ちょうどインクが切れてしまって、インク補充をしていたら、おじいちゃんが帰ってしまっていて」
嫌な予感がする。封筒を手に取ると、指で開いて中身を見た。一万円札が三枚入っている。
「これって、どうしたの」
北村は震えだした。ここまで言われれば、予測は出来ている。忘れ物は通常事務所に保管されるが、金銭の場合には私まで報告が来るはず。二か月前にそんな報告はなかったはずだ。
「いけないのは、もちろんわかっていました。でも、その時欲しいものがいくつかあって・・・いけないのに・・・」
「言わなくていいよ。もうわかった」
聞きたくないのが本音だ。まさかの事案にかなり動揺していた。しかし、茜が一緒に聞いているだけで冷静を保てた。彼女も顔をしかめているが、じっと話を聞いていた。
「使ったの」
「いえ、怖くなってそのまま持っていました。でも、忘れ物保管場所に返そうと次に出勤した時に、須永さんに封筒の事を聞かれて」
お客様が封筒の忘れ物を問い合わせに現れたらしく、須永に聞かれたために返しそびれてしまったようだ。そして、封筒を持ち帰った日はちょうど須永と一緒に勤務をしており、お客様の応対をしている北村を見ていた。
須永からの聞き取りに、封筒の行方について話は一切なかった。しかし、彼女は須永が知っていると勘違いしたのだ。
「なんか、怖くなって。使ってなくても盗みは事実です。もし須永さんが知っていたらと考えた時に、頭が混乱してしまいました」
恐怖心から、彼を誘って距離を近付けた。
「でも、付き合うまではしなくても・・・」
「辞めたくなかった。こんなことで、ここでの信頼を失いたくなかった。わたしから話をすることが出来ないままでいたら、そのうち彼の方から・・・」
須永はあくまでも勘違い。彼女が好意を寄せてくれたのだから、あの行為も別に問題ないとはいえる。しかし、そこまでの状況を考えていなかった北村からすれば、私に助けを求めるしかなかったのだろう。
たかがアルバイトを辞めたくないだけで、自分の大切なものを差し出す意味は分からない。普通はそう思うだろう。しかし、この仕事に情熱を持っていた私は複雑な感情を覚えた。
「でも、目の前の欲に負けたのは私の責任です。アルバイトは解雇ですよね」
あふれる涙も拭き取らず、彼女はこちらを見た。強い視線が私に刺さる。
嫌な仕事だな。
知りたかった事実を聞いているのに、喪失感が押し寄せる。誰も知らない話、私でしか知らなくていい裏話。まだアルバイトの頃は、野次馬的な気持ちで知りたがっていたものの、社員になると知りたくないのにこうやって話がやってくる。
私が偶然助けた少女が、ずっと私に恩返しをしたくてこの職場を選んでくれた。与えられた仕事を真剣に打ち込み、私の困りごとも沢山手伝ってくれた。これから彼女と一緒に挑もうと決めた接客コンテストは、私なりの彼女への感謝でもあった。
すべてが水の泡。そして、まだたくさん一緒に刻むはずだったこの店舗での彼女との取り組みも絶たれてしまうのか。
「山内副店長」
意識を呼び戻すように、茜が私に呼びかけた。
「えっと・・・」
「決めるのは副店長ですよね。何もかも」
そう言って頷いた。頭が真っ白だったので、言われた瞬間は意味が分からなかったが、脳の中にある血管に止まっていた血液が流れるように思考が戻ってきた。
「そうですね」
泣いている北村に向き直る。まるで別人のように力なく、顔も血の気が引いてしまっている。最近綺麗になったのは、大学のサークルで好きになった人がいるからと照れながら教えてくれた。素直で真面目で、可愛い従業員。やったことは許されないが、彼女をここで見放すわけにはいかない。
背中を押すだけではないのね。
「解雇はしません。あなたが責任を取って辞めるというのであれば、それも止めない。でも、こうなったあなたを見捨てもしない」
すべて否定形。私の意思を押し付けられないので、こういう回答になった。
「解雇、しないのですか」
「確かに、やったことは許されない。ただ、使っていないのでしょう」
「はい」
「当初考えていたコンテストまでのプランは見直す必要はありますが、あなたがもう一度頑張るなら、私は一緒にあなたと頑張りたい。私は責任者です。あなたの過ちもすべて、責任を取る覚悟はできています」
「うう、ううう」
彼女は返事を出来る状況ではないようだ。その場では辞めないといっても、不正をした人間はこの後にやはり退職を選ぶ人間が多い。失ったものを取り返せないという気持ちが勝り、再び頑張るのを諦めてしまうのだ。
「今日はここまでにしようか。まだ頭の整理ついていないでしょう。最後に、お客様っていつも来る男性の方の話でいいのかな」
「はい・・・」
何となく、想像はついた。昼にも来てくれている方で、今も来店は頂いている常連さんの一人だ。
「私が返しておく」
「いえ、私も謝ります」
「いいの。この件は、ここでおしまいにしましょう。私と中西さん、そしてあなたしか知らない話でいい。忘れはしないけど、誰にも報告しません」
本来は犯罪行為。一人の店舗責任者としてこの判断がいいのかはわからない。しかし、それでも彼女にもう一度チャンスを与えたい。飛び立つ背中を押すだけではない。迷って飛べなくなったなら、再び飛び立てるまで一緒に頑張るのも私が出来る彼女への気持ちなのだ。
責任はすべて私が取る。
決断できなかった私にみんなが示してくれたから、この判断が出来た。これからも充分迷う気がするが、それでもこうやって頑張っていこうと思う。
北村が落ち着いたところで、帰宅させた。事務所から彼女が出ていくのを見送ると、どっと疲れが押し寄せた。
「麻依ちゃん、お疲れさまでした」
カフェラテを買ってきてくれたようで、冷たいカップを私に差し出した。
「ありがとう。茜ちゃんも、遅くまでありがとう。いてくれて助かった」
茜も疲れていたみたいで、横の椅子に深めに座った。彼女はブラックコーヒーのようで、カップを開けて飲んでいた。
「麻依ちゃんの判断を支持します。あれでよかったはずだよ」
「それならよかった。まさか、あんな話になっているとは思わなかったよ」
達成感はまったくない。むしろ、この後にやらなければならない片づけがいくつかある。特に、北村の精神状態は心配だ。帰宅後に連絡をくれるように頼んだが、それも来るのかはわからない。
「北村さんは、どうするの」
「週何回かは、二号店に行ってもらおうと思う。まずは須永と距離を置いてもらわないとね。加藤さんと向こうの社員の大宮さんには恋愛トラブルの件を伝えて、宮田さんの娘の咲菜ちゃんをこちらに戻してもらおうかな」
「須永さんはどうするの」
「須永には私から話をするよ。北村が精神的に崩れて、距離を置きたがっているってね。納得はしてくれないだろうけど、強制的に距離を取ってもらうから」
強引なやり方ではあるが、仕方が無い。まだ彼が完全に北村の封筒の件を知らないとは言い切れないが、今回は突然の告白に舞い上がり、恋愛関係になった途端に束縛を始めただけにしか見えない。
「それがいいと思う。須永さんに話をし過ぎて、知らなかった話を掘り起こさない方がいいからね」
「写真の件は、多分あの一枚だけだと思う。あいつにそれ以上のものを残せる勇気はないはずだから」
彼女の今までの話から、須永は彼女の初めての男になったわけだ。原因は北村にあるのだから今回は責めようがないとしても、彼には謎の怒りが湧いてくる。
お前が好かれるわけないだろ。
これは彼には言わないが、冷静に考えればわかるものではないか。
「それならよかった。私もこれからも夕方に顔出すようにはするね」
余計な考えを巡らす前に、茜が私の意識を戻してくれた。考えるは今後の話で、感情は抜きにしなければならない。
「ありがとう」
「言いにくいけど、接客コンテストは難しそうだね」
悲しそうな表情をしている。来年も一緒に頑張ろうねと約束した取り組み。北村一本に候補を絞っていただけに、今回の件は痛手になる。
まだ時間はあるが、この状況の人間を派遣するのは躊躇いがあって当然だ。北村のモチベーションだって、回復しきれるのかは不明瞭だ。
「正直厳しいね。北村の成功体験だけではなく、茜ちゃんと昨年の雪辱を果たそうと思っていたから、なんとかはしたいけど」
「私のことは置いておこう。店舗の成長のきっかけになるためのものだから、候補がいないのであれば、仕方ないよ」
こういう場面でも、彼女は冷静に話をしてくれる。改めて、彼女の存在の大きさに気付かされた数か月間だった。
「わかった。でもね、私は茜ちゃんに感謝している。いつかはいなくなるのは確実だから、一緒に取り組める仕事は大切にしたい」
頷いていたが、茜の口が緩んだ。
「ありがとう。麻依ちゃんは素直に気持ちを口にしてくれるから、助かっているよ」
そう言って、茜は立ち上がった。
「さて、もうこんな時間。麻依ちゃんは帰らないといけないでしょう。これからの戦略は今度考えよう」
彼女は時間を気にしてくれていたようだ。確かに夫には遅くなると告げてきたが、あまり遅くなっていいものではない。
普段はいない時間。でも、私の原点はこの時間だった。沢山失敗して、沢山泣いて、何度もくじけながら成長をしてきた。だからこそ、私は北村を見捨てない。
「茜ちゃんも、こんな時間まで付き合ってくれてありがとう」
頭を下げた。彼女は息を吐いた。
「麻依ちゃんらしくないよ。これまで一緒にやってきたみたいにしてほしい。まっすぐで自分の気持ちに正直な麻依ちゃんの良さを消さないでね」
優しく微笑んだ。その姿がまるで別れのようで、寂しさが押し寄せる。
「茜ちゃん」
ぽつりと漏らした。だが、今の気持ちは伝えてはいけない。
「これからもよろしく」
首を傾げて見せたが、茜は立ち上がった。
「もちろん。頑張りましょう、山内副店長」
お辞儀をすると、彼女は事務所を出ていった。茜が出ていったので、作業を待っていた従業員が入ってきた。
「副店長、パソコン使っていいですか」
「ごめんなさい。作業遅れちゃっているよね」
「清掃を先に回したので問題ありません。あの・・・」
あくまでもパソコンに目を向けたまま、従業員の浦沢が訊ねてきた。表情は険しく、気持ちを隠しきれていない。
「どうしたの」
「北村さん、大丈夫ですか。もしかして、私が余計な話をしたから」
「余計な話って何かな。もしかして、北村と須永の話のことを話してくれたのは、浦沢さんなのかな。それなら、余計な話ではないよ」
「中西さんから、私が話したって聞いていないのですか」
「聞いていないよ。本人が知られたくないと言っているから誰か言わないと彼女から伝えられたから」
しまったというように、彼女は眉間に皺を寄せた。
「でも、あなたが言ってくれたから解決に繋がったのは事実。北村にも須永にもこれからも頑張っていく道を提示していくから、安心してほしい。もちろん、みんなが働きやすい環境が最優先になるけど」
浦沢は静かに頷いた。不安はしばらく消えないのだろう。今回話してくれたのは感謝をしていて、これから期待の出来る存在。メンタルのケアは継続しないといけない。
「辛い思いをさせて、ごめんなさい。本来はあなたがいうのではなく、私が気付かないといけないのに。だから、北村に悪いことをしたとか、責任は感じてほしくないな」
「・・・わかりました」
出来る限りの話をして、私は帰路に就いた。もう少し早く出られたら、颯にも会えたのに。ただ、ここでのケアを怠ると後に取り返しのつかない事態になる。
夏に入り、夜でも数分いれば汗をかくほどには熱い。事務所でも話に力が入ってしまっていたので、何度か汗をかいてしまった服を早く着替えたい気持ちで一杯だ。
嫌な話だった。車に戻ると、大きく息を吐いた。エンジンキーを回したが、しばらく目をつぶって考えていた。
入社時は地味で、決して器用ではなかった。でも、必死に仕事を覚えると、私の見ていないところでも真剣に頑張ってくれた。私だけではなく、お店のピンチを何度も救ってくれた。大学生活が忙しくても休むことなく支えてくれた存在。まだ、もっともっと彼女との思い出は続くと信じていた。
きれいなメイク、手入れを怠らなかった最近延ばし始めた髪。それをぐしゃぐしゃにして泣き崩れ、鼻水も流していた。誰にも見せたくない姿をさらしている彼女を見ても、私は失望していない。
目を開けて、シフトレバーを動かした。結局私は彼女を見放すことはできない。それなら、私ができることはすべきだ。決めるのは私という茜の言葉を胸に帰宅をした。
アパートの二階にある我が家へと重い足取りで進む。強い決心はお店での私で、家庭を顧みない肩身の狭い私は堂々とはしていられない。浩紀は何事もなかったかのように接してくれるが、それが猶更申し訳ない気持ちにさせる。
颯も寝ている時間なので、静かに鍵を開けた。寝室を少し開けると、わが子はすやすやと寝息を立てて眠っていた。今日は絵本の続きを読めなかった後悔が胸を刺す。汗まみれの汚れた体では近付きたくないので、静かにドアを閉めた。
リビングで、浩紀は先に食事をしていた。おそらく、実家から貰ってきた煮物とコンビニの総菜がおかれていた。
「遅くなってごめんなさい」
「ああ、おかえり。夕飯は作れなかったけど、母さんが煮物くれた。麻依、好きだろう」
私は頷いた。息子の前ではママと呼ぶが、二人きりではちゃんと私を下の名前で呼んでくれる。
「ありがとう。何も出来なくてごめんなさい」
本心が口を突いて出た。ここまでしてくれる旦那がいるのに、私は何も出来ていない。
早い結婚でもっと遊びたかったのは浩紀も一緒のはず。社会人になっても飲み会を最低限に抑えて家族のために時間を使ってくれる。私は自分のやりたいことをやっているのに、彼には我慢させてばかりだ。
「ちょっと、顔を洗ってくるね」
気持ちが落ちたので離れようとした手を、浩紀が掴んだ。
「麻依、何考えている」
「何って、私が迷惑ばかりかけているから・・・」
振り向くと、真剣な顔で私を見つめていた。普段から表情を大きく変える人間ではないが、ずっと一緒にいる分彼の考えていることはある程度理解できる。
「麻依は何も迷惑かけていない」
すっと腕を引かれて、立ち上がった浩紀の胸の中に納まった。心地よい暖かさに、自然と彼の胸に顔を埋めていく。
「颯は俺じゃなくて、麻依をヒーローだって言って憧れているんだと。悲しいけど、一緒にお店に行った時に麻依が働く姿を見てから、ずっと気持ちが変わらないって。確かに、働く麻依の姿を見るとわかる気がする」
「だからって、家族に迷惑かけていいわけではないよ」
「誰も思っちゃいない。こうしなければならないなんて、高い理想を持たなくていいのだから、麻依は麻依のままでいてほしい。ただ、記念日を忘れるのは勘弁してほしいけどな」
頭を撫でてくれた。こうやって彼の胸の中にいる時間が好きだったのすら、この数年は忘れてしまっていた。
「ごめんなさい」
一度、彼から離れて向き合った。
「色々迷っていたせいで、みんなに迷惑かけちゃった。ほとんどが私の勝手な思い違いだったみたい。本当にごめんなさい。あと、記念日は忘れないようにする」
「もういいよ。それより、ご飯食べないか」
「うん、その前にシャワー浴びてこようかな。汗かいて、早く着替えたい」
「そうか、準備しておくから入ってきな」
頷いた後に、息をすっと飲み込んだ。
「あのさ、体を綺麗にしたら、また、さっきのように抱きしめてね」
たどたどしい言葉に、恥ずかしさが更に押し寄せた。真剣だったり、こうやって照れてみたり、私の中にもたくさんの顔がある。嫌いな自分もいっぱい存在しているけど、すべての山内麻依を大事にしよう。そうやって成長して、自分を好きになれればいいと思う。
返事を聞かずに、私は早足で着替えを取りに向かった。




