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最終話『決起』


 この世で最も愚かな行いとはなんだろうか。


 ハリボテの団欒を享受することだろうか。違う。


 肉親との意思疎通を放棄することだろうか。これも違う。


 根も葉もないデマや噂話を信じることだろうか。もちろん違う。


 叶わない恋心を抱き続けることだろうか。全く違う。


 この世で最も愚かな行いとは、初恋の女の子と同姓同名というだけで赤の他人に勝手に粘着し、彼女に近づきたいという汚物みたいな欲求を抑えられずに会話を盗み聞きし、あまつさえそれを腐った脳味噌で曲解し、気持ち悪い妄想を拗らせ、独りきりで全てを理解した気になることだった。


新道(しんどう)先生、本当に大丈夫ですか? やっぱり顔色悪いですよ?」


 誰かの声が遠くで聞こえた気がした。深い慈愛に満ちた、聞く人を安心させる声だった。そう思っただけだった。


「……大丈夫です」


 誰かの声が近くで響いた気がした。数多の不協和音を無理矢理重ね合わせたかのような、人を不快にしかしない声だった。事実だった。


「さっきも言いましたけど、無理はしないでくださいね。……あっ、あと、ラジオも機会があれば聴いてみます」


 たったそれだけを言い残して、声の主は瞬く間に遠ざかっていく。吐き気を催す化物から逃れ、自らを待ってくれている子どもたちの元へ。


 何事もなかったかのように。

 否、本当に何事もなかったのだ。


 現実はいつだって無表情で、世界はすべからく無関心で、鼻の穴をほじりながら、ただ箱庭を傍観しているにすぎない。


 皆が懸命に生きる箱庭の中で、おめでたい道化は新道(しんどう)拓生(たくみ)ただ一人だけだった。


「あっ、新道先生。ちょっと聞いてよ。さっき塾長と話してたんだけどー……って、どうしたの、先生?」


 文香(ふみか)と入れ替わるように、冲方(うぶかた)(さき)が話しかけてきた。拓生の顔を見るやいなや、ギョッとして眉根を寄せる。


「……別に、なんでもないよ。それより、冲方さんこそどうしたの?」


 思いがけないアイドルの登場に、拓生の心は僅かに高揚する。どん底まで落ちた心を慰め、快楽へと導いてくれる彼だけの天使様が目の前に顕現してくれた。救いを求める妖怪に、縋る以外の選択肢など存在しなかった。


 さあ、見せてくれ。

 いつもの醜態を、新道拓生の前に晒してくれ。


 彼は生まれて初めて、心の底から希った。


 咲は拓生の様子を訝しみながらも、


「えっと、さっき塾長と志望校の話してて。ほら、私、まだちゃんと決めてなかったでしょ? 去年くらいからなんとなく候補はあったんだけど。実はこの前の面談の時から、そろそろ本命決めないとねって言われてて」


 言われて、振り返ってみる。そういえば、今まで咲と具体的な志望校の話をしたことはなかった。塾長とのミーティングでも「未定」としか伝えられていない。咲の学力であればある程度のレベルなら対応可能だと判断し、これまでは学校の定期試験に注力して教えてきた。


 高校二年生の春。確かに、そろそろ明確な目標を見据える時期だろう。


「……ということは、もしかして決まったの? 志望校」


 話の流れからそう推測すると、咲は感心したように短い息を漏らした。


「おー、さすが。うん。だから、先生には話しておこうと思って」


 蓋を開けてみれば、どうでもいいお世辞と、それ以上にどうでもいい話題だった。こんな他愛ない話をするためにわざわざテスト勉強を中断し、急ぎ足で話しかけてきたのか。今度の授業の時にでもついでに話せば良いものを。そんなに一刻も早く知らせたかったのだろうか。


 本当に、この娘は素晴らしい。


 冲方咲は新道拓生に恋をしているのだ。その勘違いも甚だしい想いが行き着く進路はひとつしかあり得ないだろう。だからこそ、これまでの拓生もあえて訊かなかったのだ。


 気を抜けば持ち上がりそうになる口角をなんとか抑えて、拓生は解りきった答え合わせに移る。


「それで、どこにしたの?」


 二度あることは三度ある。


 人も、生も、そう易々と変わらない。


「えっとねー……」


 そして、冲方咲は口にした。


 それはお洒落な雰囲気に定評がある、ここから遠く離れた地にある女子大学の名前だった。






 * * * * *






 帰宅すると、母親がキッチンで夕食の支度をしていた。丸まった背中を虚ろな目で見つめながら、そういえば今日は仕事が休みの日だったと思い出す。


「あっ、拓生おかえりー……って、どうしたのその顔」


 リビングのドアが開く音に振り返った母親は、息子の顔を見るなり目を丸くする。咲といい母親といい、今の拓生はそんなに酷い顔をしているのだろうか。しているのだろう。絶望を塗りたくり恥辱でコーティングした、この世で最も惨めな人間の不細工面である。


「……別に、なんでもないよ」


 この言葉を発するのも、果たして何度目だろうか。なんでもないわけがないのに。今にも泣き叫んでしまいたいくらい、心は悲鳴を上げているのに。


 いっそ全てを吐き出してしまえたらどんなに楽だろう。胸の内に蟠る感情を、脳が焼かれるほどの情動を、喉奥に手を突っ込んで引っ張り出し、目の前の母親に投げつけて、「お願いママ助けて」と喚いてしまえたらどんなにスッキリするだろう。


 できるわけがなかった。それができる人間なら、新道拓生はもっと真っ当に生きてきたはずだ。できないから、やってこなかったから、こんな化物が生まれてしまった。過去の自分のツケを払うのはいつだって今の自分なのだ。ゴミ箱の底に溜まった汁みたいな物体でも、それはかろうじて自尊心の形をしていた。


「そう? ならいいけど」


 母親はそれだけ言うと、さっさと支度に戻ってしまう。彼女たちのこの反応が自分に対する評価を如実に反映している事実に気づけるほど、今の拓生は正常ではなかった。


「あっ、そうだ。もう少しでご飯できるから、千明(ちあき)呼んできてくれる?」


「……うん」


「ごめんね、部屋にいると思うから。まったく、あの子もあんなので身になってるんだか……」


 後ろで聞こえた母親の呟きに妙な引っ掛かりを覚えながらも、拓生は階段を登って千明の部屋へと向かう。


 ノックをする。返事はない。もう一度ノック。やはり返事はない。


「——」


 いつもの拓生であればドア越しに一言「ご飯」と言うだけの、独り言と区別がつかないコミュニケーションで済ませるところだ。しかし、今日ばかりは勝手が違った。


 どうしても千明に会いたかった。会って安心したかった。世界は自分を見捨てていないのだと思いたかった。


 此の期に及んで尚、彼は信じてしまうのだ。

 彼女たちだけは違うと。


 道化に先を越され、想い人に相手にされず、餓鬼に裏切られても、それでも残された可能性に縋らずにはいられないのだ。自分の目に狂いはなかったのだと思いたいのだ。


 散々憐れんできた親が、愚かな息子の光だった。

 散々蔑んできた妹が、惨めな兄の灯火だった。


「——」


 ゆっくりとドアを開ける。電気は点いていた。


 千明の部屋に入るなど、一体何年ぶりだろうか。もはや思い出すのも馬鹿馬鹿しいくらいだった。こましゃくれた家具の配置も、ほのかに香る芳香剤の香りも全ては削除され、いつのまにかゴミ箱からも消え失せている。


 千明は部屋の奥の椅子に座ったまま、机に突っ伏していた。規則的に上下する肩口を見るに、どうやら眠っているらしい。


 ——何故、近づこうと思ったのだろうか。拓生には解らなかった。解らないから近づこうと思ったのか。意味が解らなかった。自分で自分が解らなかった。


「千明、ご飯……」


 形だけの呼びかけを口にした。届くわけがなかった。届かせようと思っていなかった。千明に会いたかった。それだけだった。


 音は立てなかった。これも何故だか解らなかった。気がついた時には彼女の背後に立っていた。こんなに小さな背中だっただろうか。首元の黒子の位置が自分と同じだった。十数年間も同じ屋根の下でともに過ごしてきたのに、初めて知った繋がりだった。どうでも良かった。


 突っ伏した腕の下には、ノートが広げられていた。腕で隠されているので、書かれている内容を読むことはできない。これだけ近づいても、千明が目を覚ます気配はなかった。


 机の上にスマートフォンが立てかけられている。偶然目に入ったそれは電源がついたままになっており、動画アプリを表示していた。どうやら動画を観ているうちに寝落ちしてしまったようだ。


『次の動画の再生まで』


 薄暗くなった画面に、見たことのある文言が映し出されている。その下、小さなサークルの中で、十、九、八——と、数字がひとつひとつ減っていく。


「——」


 このままにしてはいけない気がした。それは予感だった。この画面をこのまま表示させていたら、取り返しのつかないことが起こる。今すぐ止めなければ。電源を切らなければ。離れなければ。逃げなければ。そう思うのに、拓生の身体は動かなかった。


 磔になったように、動かなかった。


 そして、無機質なカウントダウンは、ゆっくりと、ゆっくりと、優しく無慈悲に罪人の首を絞めていく。


 動画が再生された。


 いつかも耳にしたフリー音源のSEと、若い男性の声がした。


『ということで本日の企画は、受験生必見! 共通テスト全科目8割とれるマル秘勉強法ー!』






 * * * * *






 暗闇の中、自室のベッドに寝そべりながら、拓生は一人考えていた。


 自分は間違えていたのだろうか。もしそうだとしたら、一体どこで間違えてしまったのだろうか。


 これは無意味な問いだった。それはそうだ。新道拓生は間違えてなどいないのだから。間違いとは問題を解くことで初めて直面する壁である。解くとは、すなわち解ろうとすることだ。拓生の中にそんな高尚な意志など存在しなかった。正解不正解以前に、彼はそもそも、その手に鉛筆すら握っていなかったのだ。 


 向き合っているつもりで誰とも向き合っていなかった。合わせているつもりで誰とも目を合わせていなかった。大きさだけは立派なハリボテの脳味噌を無駄に消費して、自己中心主義極まりない妄想の中で勝手に理解した気になって、仮初の悦に入っていただけだった。


 正しくもなければ間違いでもない。語るに値しない一人おままごとが、新道拓生の日常であり、人生なのだ。


「——」


 一体、いつからこうなってしまったのだろう。


 小学生の頃はそれなりに充実していた。決して一番にはなれなかったが、勉強ができた。決して一番にはなれなかったが、運動もできた。決して一番にはなれなかったが、友達も多かった。決して一番にはなれなかったが、褒められることも多かった。


 人並みに恋もした。前の席に座っていた、白いTシャツに浮かび上がったブラ紐が魅力的な胸の大きい女の子だ。結局離れ離れになるまで一言も口を利いたことはなかったが、心の中でだけは「ふみちゃん」と呼んで淡い想いを寄せていたのだ。


 しかし、ひとつだけ、拓生には明確に足りないものがあった。


 とにかく将来の夢がなかったのだ。


 当時の拓生はサッカーを習っていたが、だからといってプロ選手になりたいとは微塵も思わなかった。結局辞めた理由も、そもそも始めた理由すらも思い出せない。理由なんて存在しないのだから当たり前だ。会社員とか公務員とか、奇を衒った餓鬼の戯言すらほざけなかった。


 中学生の時も同じだった。


 打ち込めるものなど何もなかった。勉強だけは変わらず継続していたが、それにもまるで理由なんてなかった。強いて理由を捻り出すとすれば、中学校は勉強をする場所だったからだ。


 思い出もなかったから、アルバムもいつのまにか無くなっていた。


 高校三年生の時、大学への進学を決めた。もちろん理由なんてなかった。今の大学を選んだのは、実家からの距離の近さ故だ。将来のために一人暮らしをしようとか、社会経験を積もうとか、そんなことは露ほども考えなかった。


 そして、今。いざ大学に入学してからも、拓生の無聊は変わらなかった。学びたい学問などなかった。研究したいテーマなどなかった。突き詰めたい分野もなければ、就きたい職業もなかった。


 熱中できる何かがなく、目指したい理想もない。拠り所にできる才能や能力もない。一向に具体的な形を持とうとしない人生は、少しずつ新道少年の心に不安という名の呪いを植えつけていった。


 不安とは無知の裏返しだ。得体が知れないが故に生まれる感情なのだ。最初から枯れ尾花だと解っていれば、幽霊なんて怖くもなんともない。


 だから、拓生は周囲の人間に救いを求めるようになったのだ。自らが生きるこの世界の本質を知ることで、理解することで、自らにかけられた呪いを解こうとした。あるいはそれは、同類を見つけて安心したかったからなのかもしれない。


 そして、彼は気づいてしまった。


 惨めな両親。未熟な妹。滑稽な友人。憐れな生徒。


 世の中は、自らが犯している過ちに気づくことなくのうのうと暮らす、生来の愚か者どもで溢れかえっていることに。


 なんとも皮肉なことだが、彼は中途半端に頭の出来が良かったのだ。


 彼ら自身も自覚できていない惨たらしい本質を、拓生だけは知っている。そんな彼らを見下してしまう救いようのない自分も、拓生だけはちゃんと自覚できている。阿鼻叫喚の地獄絵図を、拓生だけは精密に描けている。その歪んだナルシシズムが、ほかの何よりも拓生を安心させてくれた。呪いから解き放ってくれた。無能も無気力も、あらゆる『無』をも肯定できた。


 吐き気がするほど理不尽で、笑ってしまうほど不条理で、涙が出るほどくだらないこの世界で、それだけが拓生の心の支えだった。自分を慰める希望だった。


 どうしようもない現実を、生きていける気がしたのだ。屑は屑なりに、心のどこかで、結局なるようになるだろうと高を括っていたのだ。


 他人の弱さを愛してきた。自分の弱さを誇ってきた。


 気持ち良かった。快感だった。幸せだった。生を感じていた。


 しかし、その全てが、まやかしだったのなら。


 彼が解いたつもりになっていた理が、ただの自慰狂いによる妄想の産物でしかなかったのなら。


 二十一歳の新道拓生は、この先、果てしなく続く人生を、どう生きていけば良いのだろう。


 自分は、今、何をすべきなのだろう。


「——」


 拓生は一人瞑目する。


 結局のところ、自分のことを一番理解できるのは、自分ただ一人なのだ。そこに余人が介在する余地はない。


「——」


 目を開ける。ポケットからスマートフォンを取り出す。液晶画面に触れると、見慣れたホーム画面が広がった。


 ベッドに仰向けに寝転がったまま、拓生の指先はひとつのアイコンへと伸びていく。


 端末の向こう側では、電子書籍の本棚が諸手を挙げて彼を待っていた。






〈了〉

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