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第3話『欠点』


「——先生、私の話聞いてる?」


 唐突にすぐ近くから聞こえた声に、拓生(たくみ)はハッと我に返った。


 反射的に視線を向けると、(さき)がジト目でこちらを睨め付けていた。両手で頬杖をついて唇を尖らせる様は、自身の魅力を真に理解している女子高生のそれである。


「問題、とっくに解き終わってるんだけど」


 呆れたように言われて、今がアルバイト、それも授業中であることを思い出す。今日はいつも通り、咲を担当する日だった。


「……ああ、ごめん。今、丸つけるね」


 慌てて彼女の手元からノートを回収し、講師用のテキストを片手に採点を開始する。


 しばらく、お互いに無言の時間が続いた。赤ペンが走る音が、塾の狭い学習ブースにはよく響く。全体の三分の二くらいまで丸つけが完了したところで、咲が尖らせていた口を開いた。


「先生、何かあった?」


 それは気を遣っているというよりは、どこか揶揄っているような声色だった。大人の男相手に背伸びしようとする女の子特有の、無理矢理甘ったるさを演出したがるおませな餓鬼のそれだ。


 常の拓生であれば微笑ましく見下すことができるその態度が、今日はやけに癇に障った。


「……別に、何もないよ」


「うっそだー。先生、最近変だよ? なんかぼーっとしてること多いし」


「そんなことないよ」


 採点を終え、ノートを彼女に返す。数日前から教え始めた新しい単元だが、咲はいつも通り高得点を獲得している。細かい計算ミスが一、二問ある程度だった。


「ふーん」


 咲は手元のノートを一瞥してから、


「そんなことあると思うけど。ほらここ。採点ミスしてる」


 拓生の手元にあるテキストと自分のノートを交互に指し示した。


 言われて見ると、確かに採点を間違えている。正しい答えに赤いレ点が書き記されていた。改めて確認すると、途中式も問題なく合っている。文句のつけようがない、完全なる正答だった。


「あっ、ごめん。間違えた」


 レ点の上から大きく丸をつける。


 普段の冷静沈着な新道(しんどう)先生にしては珍しい間抜けな様子に、咲は呆れたようにカラカラと笑う。


「ちょっと、本当に大丈夫ー?」


 さりげなさを装って、装っているが故に中身が丸見えになったボディタッチが拓生の細い二の腕に襲いかかる。下心という名の粘り気を帯びた感情が白衣を汚し、子どもが絨毯に溢した牛乳のように染みを作りながら広がっていった。


「先生、何か悩みでもあるの? 私で良ければ話聞くけど?」


 とってつけたようなお姉さん面が、頬杖の上に鎮座している。その不細工なお面を今すぐ引っ剥がして、叩きつけて靴裏で踏みつけてやりたい衝動を堪える。


 悩みなら、ある。あるのだ。それは解っている。しかし冲方(うぶかた)咲では良くないから、拓生に正直に話すという選択肢は存在しなかった。


 故に、優しい先生は優しい嘘をつく。


「別に、悩みなんてないよ。ごめん、ちょっと寝不足なのかも」


「寝不足?」


「うん、そう。大学で、書かなきゃいけないレポートが溜まってて……ここだけの話、単位がさ、ヤバいんだよ」


「ふーん。そっかー」


 自虐的な笑みを浮かべて言うと、咲は納得したように頷いてノートへと視線を戻してくれた。


 気づかれないように安堵の息を吐き、そのまま、間違えた問題の解説へと移る。ホワイトボードに向き直り数式を書き連ねていくうちに、咲は何も言ってこなくなった。


 そう、これでいい。これが二人の理想の形なのだから。


 拓生は冲方咲を心から愛している。嘘偽りなく愛しているが、その愛はどこまでいってもメタ認知の延長線上にすぎない。


 咲の魅力は顔の可愛さでもなければ頭脳の聡明さでもない。最も彼女を輝かせているのは、新道拓生という畜生を好いてしまっている、これまでの恋愛経験を疑いたくなる絶望的なまでの見る目のなさだ。


 そんな自分の見る目のなさに気づくことなく、盲目的に彼を追いかけ、貴重な高校時代の青春をドブに捨てている哀れな姿なのだ。当の本人から心の中で見下され、己の最低な人間性を見つめて快感を得るためのオカズにされているとも知らずに、一生届くことのない想いに身を窶す、恋に恋する可憐な乙女。


 言わば新道拓生にとって冲方咲とは、歪みに歪んだ愛玩対象(オナペット)なのである。そしてこの場合、大切なのは主導権だ。玩具に隷属する人間はいない。


 この時初めて、拓生は今の自身を支配している鬱憤、その正体へと思い至る。彼は我慢ならないのだ。自分の知らない自分がいることが。そして、その事実を他人から指摘されることが。とっくに人生を諦めている落第生のくせに完全に自尊心を捨て切る覚悟は持てず、知ったような口を聞かれると腹が立つ。そのナルシシズムを自覚することで悦んでしまうのだから、いよいよ始末に負えなかった。


 結局のところ、新道拓生のことを一番理解しているのは、新道拓生ただ一人なのだ。そこに余人が介在する余地はない。ましてや見透かされるなど以ての外である。


 大学、レポート、単位——ここだけの話。拓生を介して『大学生』に憧れる咲にとって、これほど魅力的なワードもあるまい。幼気な少女を自分も大人の仲間に入れてくれたのだと錯覚させ、黙らせるには十分な方便だった。仮初の充足感でも人は幸せになれる。恋する女の子は最強なのだ。


 満足のいく自己分析と他者分析を完了させ、拓生はほっと息を吐く。解説が終わり、次の単元の説明に入る頃には、幾分余裕を取り戻していた。


 再び練習問題を解かせている間、彼の瞳は、自然とある場所へと向かう。


 学習ブースのパーテーション自体はそこまで背が高いものではない。拓生くらいの身長であれば、立ち上がればブース内からでも塾全体を見渡すことが可能だ。


「——」


 ——中村(なかむら)文香(ふみか)は、隣のブースで授業の真っ最中であった。確か、今日は中学生女子の英語を担当しているはずだ。今は休憩時間なのか、ブースからは、授業とは関係のなさそうな話が小さく聞こえてきた。


「えっ、中村先生もお笑い好きなの?」


「うん、好きだよー。去年のマンチャン観てから、なんかハマっちゃって」


「へぇ、結構意外かも。好きな芸人とかいるの?」


「最近はぷれいおんがイチオシ! 暇さえあれば動画とかSNS見ちゃう。ボケの方がね、結構イケメンなんだよ」


「あー、ぷれいおんかぁ。面白いよねぇ」


 文香が新しくアルバイトに加入してから、そろそろ二週間が経とうとしていた。


 先日の授業見学を経て、文香は少しずつ自分でも授業を受け持つようになっている。まだ担当を任されている生徒は先の女子中学生一人だけだが、ホワイトボードを背に解説をする姿は一介の塾講師らしくなりつつあった。


 担当している生徒が、数学と英語で週に二回通っていることも幸いしたのだろう。経験を積む機会が増えれば、それだけ上達するスピードも上がる。今では、こうして授業の合間に軽く雑談をする余裕まで身につけていた。


「——」


 中村文香。ふみちゃん。


 新道拓生の初恋相手——と、同姓同名の女。


 そう、あくまで同姓同名なのだ。彼女は中村文香であって、中村文香ではない。


 拓生が最後に彼女の姿を見たのは中学生の頃である。五年も前のことなので定かではないが、記憶の中の文香と目の前にいる文香とでは、根本的に顔の作りが異なっている、ように思う。女性の顔の造形を事細かく観察したことなど皆無なため自信はない。小中学校のアルバムでも引っ張り出してくればすぐに解るのだろうが、生憎、拓生の私物はもうこの世に存在しない。


 あれだけ想い焦がれたはずの二つの乳房も、世界の広大さを知ってしまった今の拓生には、もはやなんの判断材料にもなりはしなかった。


 しかし、解る。解るのだ。それは直観と呼ぶべき代物だった。己の論理的思考力を駆使して日夜自慰行為に耽る拓生にしては珍しく、頭より先に心が感じ取っていた。


 それに、もし仮に同一人物だったとして、それがどうしたと言うのだろう。拓生の初恋は既に終了している。現につい最近まで、彼女の存在すら忘れていたのだ。今更思い出したところで、拓生の日常はこれまでと何も変わらない。こんなとうの昔に終わっている、救いようのない塵芥の胸の内に、あの頃の甘酸っぱい青春など再来するはずがない。


 はずがないのだ。だから、これは決して恋などではない。では一体、なんだと言うのだろう。この胸を掻き乱す感情の波は。勝手に心の奥底から湧いて溢れてくる、中村文香への想いは。


 この場所で挨拶を交わしたあの時から、拓生の頭の中には常に中村文香が存在し続けている。自宅にいる時も、大学での講義中も、いついかなる時だって、中村文香のことを考えている。シフト表を見れば、まず中村文香の名前を探した。シフトが被っている時は、気づくと彼女の姿を目で追っていた。


 どうして、これほどまでに意識してしまうのだろうか。

 どうして、これほどまでに惹かれるのだろうか。


 咲の言う通りだ。今の拓生は変なのだ。異常をきたしているのだ。ただのマセ餓鬼には相談できないくらいの大きな悩みを抱えているのだ。


 そしてそれを解決できるのは、新道拓生本人をおいてほかにいない。


「テスト近いんだからしっかりしてよね、先生」


 屈託なく笑う咲の言葉は、憧れの新道先生の耳にはついぞ届かなかった。






 * * * * *






 一人きりの夕食を終え、いつも通り自室へと引っ込んだ拓生は、電気もつけないままいつも通りベッドで横になっていた。


 ポケットから取り出したスマートフォンを起動する。いつもの拓生であれば電子書籍のアプリへと一直線に向かうはずの指先は、異なるアイコンへと伸びていた。


 会員登録不要で、無料視聴が可能なラジオアプリ。つい先日ダウンロードしたばかりのそれを起動すると、簡素なホーム画面が映し出される。人気番組やおすすめ番組の項目を全てスルーして、拓生は視聴履歴から目的の番組を表示させた。


 ワイヤレスイヤホンを接続し、耳に嵌める。再生ボタンをタップすると、耳元から軽快なBGMが流れてきた。


『さあ、というわけで今週も始まりました。ぷれいおんの朝までキックオフ!』


『この番組は、僕たちぷれいおんが一流のお笑いプレーヤーを目指して、寝る間も惜しんでトレーニングを続行していくラジオ番組です』


 お笑いコンビ・ぷれいおんのラジオ番組は、そんなお決まりの文言でスタートした。


 きっかけはウィキペディアだった。『プレーオン』で検索すると案の定サッカー関連の情報しか出て来ず、『プレーオン』『芸人』で調べるとようやくヒットした。正式名称は『ぷれいおん』であり、ともに東京都出身のお笑いコンビらしい。コンビ名から推察できる通り、高校時代のサッカー部の同期で結成されたコンビだそうだ。


 毎年夏から冬にかけて開催される漫才日本一を決める大会、漫才チャンピオンシップ——通称『マンチャン』。年末に行われる決勝戦はテレビでも放映されているが、拓生はこれまで一度も見たことがなかった。ぷれいおんは去年の大会で、その決勝戦に初めて進出。結果は振るわなかったものの、大会自体の知名度も手伝って、最近では少しずつほかのテレビ番組への出演も増えているようだ。


 そのまま『出演』の項目を流し見していた折、ラジオ番組も配信していることを発見した。初回放送日は今から一ヶ月前。年末のプチブレイクから、順調に仕事を増やしているらしかった。


『で、最近どう?』


『いや雑なフリ! とても一流を目指しているとは思えないトークの始め方ですけれども』


『最近どうよ?』


『それやめろって。もう少しマシな聞き方あるだろ』


『最近どうなんだよ』


『フィジカル強いなぁ。全然動じないじゃん』


『まあ、そこは元ボランチですからね』


『あんまボランチって体幹強いイメージないのよ。どっちかって言うと足下上手いイメージだから。まあ、最近だとあの番組に出させていただきましたね——……』


 そこからトークテーマは、先日放映された某有名バラエティ番組へとシフトしていく。


 お互いに収録時のエピソードトークを披露しながら、片方が時にボケを放り込み、もう片方が的確なツッコミを入れる。なるほど、いつかの成人したての幼稚園児たちとは比べ物にならないほど完成されたコミュニケーションである。無論、ラジオという媒体はそもそも『喋り』をエンターテイメントとして提供しているのだ。それを頭の足らない大学生どもの稚拙な会話と同じ土俵で評価すること自体が野暮であり、プロに対して礼を失する愚行であることは言うまでもない。息子娘のお遊戯会を見て「将来は俳優さんだね!」と拍手することはあっても、その逆はないのだ。


 しかしながら、そんな常識を新道拓生に求めても仕方があるまい。芸人ラジオに限らず、拓生はラジオという文化自体にこれまで全く触れてこなかったのだから。


 そもそも、拓生は芸能なるものに露ほども興味をそそられない。世の中には『推し活』と呼称される自慰行為が存在するらしいが、熱中する有象無象の心理に拓生はこれっぽっちも共感できなかった。


 自分以外の誰かを心の底から応援し、一生懸命な姿に生きる元気をもらうなんて常軌を逸した所業としか思えなかった。「彼彼女も頑張っているから自分も頑張ろう」なんて思い上がりも甚だしい。努力は本人が手にした特別であり、ただ眺めているだけの地蔵どもにはなんの関係もありはしないのだ。勘違いした自己投影ほど悍ましいものはなかった。


 拓生は違った。彼のように成し遂げられることなど何もなく、将来の夢もなければ目指したい道標も持たず、まだ心臓が動いているから仕方なく生きているだけの人間にとって、心の拠り所となるのは兎にも角にも愚かさなのだ。醜さなのだ。卑しさなのだ。なんで生きられているのか解らない、手の施しようがない無様な人間。そしてそれを自覚できてすらいない人間こそが拓生の無聊を救ってくれるヒーローであり、アイドルなのだ。


 そしてその無様は、リアルであればあるほど拓生の心を猛らせてくれる。不祥事、スクープ、スキャンダル——インターネットの向こう側には際限なく醜悪が広がっているが、拓生を魅了するのはいつだって身の回りに転がるミゼラブルであった。自分の人生になんの関係もない、対岸ではしゃいでいる登場人物のハイドになど、ましてやジキルになど微塵も興味はない。手の届く距離で、触れれば壊れてしまいそうな間合いで、五感で愉しめるリアルな体験こそ、拓生の人生を彩る至高のエンターテイメントなのだ。


 両親が好きだ。勝手に娘に怯え、勝手に息子に期待し、どんなに無味乾燥でも家族という宝物をなんとか保とうとする惨めさが好きだ。


 千明(ちあき)が好きだ。反抗期を持て余して自分だけの世界に引き篭もり、軽薄な流行に乗っかってこれから現実に打ちのめされるのを待つしかない未熟さが好きだ。


 鵜飼(うかい)(すすむ)が好きだ。大学生にもなって客観性を獲得できず、己の主観に振り回されて現実を勘違いし続けている滑稽さが好きだ。


 冲方咲が好きだ。存在すらしない素敵な幻影を追いかけ、無意味で無価値なアプローチで人生を浪費している哀れさが好きだ。


 では——中村文香は。


 自分は中村文香のことをどう思っているのだろう。


 それを知るために、慣れないながらもラジオを聴き始めた。理由は単純にして明快、彼女が好きだと言っていたからだ。彼女を想う自分を知るには、まず彼女を知ることが先決だと思った。彼女を知るには、彼女が想っているものを知ることが近道だと思ったのだ。


『キックオフ大喜利ー!』


『このコーナーは、毎回サッカーをテーマに大喜利を出題。リスナーから回答を募集するコーナーです』


『今週のお題はこちら。レッドカードを超えるブラックカードの意味を教えてください』


『では早速いきましょう。ラジオネーム、猫にご飯さん』


『レッドカードを超えるブラックカードの意味を教えてください』


『その日、ボールを片付ける係になる』


『いや、確かに学生の時、最後にボール当たった奴が全部片付けるみたいな謎ルールあったけど!』


 番組は終盤に差し掛かっていた。気がつけば聴き始めてから二十分以上が経過している。


 最近始めた新たなマイルーティーン。暗闇の中で、拓生はいつも考えることがあった。


 中村文香も、今このラジオを楽しんでいるのだろうか。彼女はどんな顔をしているだろう。


 笑っているだろうか。おそらく笑っているだろう。アルバイト先で文香を見かける時、彼女はいつも微笑んでいた。この世に悪いものなど存在しないみたいに。


 その笑顔が、また拓生の心を掴んで離してくれない。


 二人のトークが鼓膜を震わせるたびに、文香との距離が縮まっている気がした。あの子はこんなものが好きなのだ。少しずつではあるが、拓生の中で中村文香の欠片が蓄積され、組み合わされ、形作られていく。


『というわけで、ここまでのお相手はぷれいおんでした! また来週ー!』


 エンディングの言葉とともに、BGMの音量が徐々に大きくなっていく。


 寝る間も惜しんでトレーニングを続行していく『ぷれいおんの朝までキックオフ!』は、いつも通り、きっかり三十分で幕を下ろした。






 * * * * *






 どれだけ自身に異常が訪れようとも、日常という茶番は嘲笑うかのように平然と流れていく。


 その日、及川(おいかわ)ゼミが終わった後のこと。拓生は講義室に残っていた。教授はもちろん、ほかのゼミ生も既に解散しており、室内にいるのは拓生一人である。


 なんとなく惰性で出席し続けている講義の小レポートを作成していると、突然ガラガラとドアが開く音がした。


「おっ、拓生じゃん」


 鵜飼進は一瞬驚いた顔をした直後、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら講義室に入ってきた。リュックとパソコンを机に放り出し、拓生の斜向かいの席にどさりと腰掛ける。


「会うの久々じゃね? こんなとこで何してんの?」


「……別に、ただのレポート」


「別にって、つれないなぁ。あれだろ。天才君は陰の努力を見られて恥ずかしいんだろ」


「違うよ」


「あっそ」


「そういうお前は?」


「まあ、俺もそんなとこ。空き教室探してた」


 そう言うと、進は早速パソコンを起動して作業を開始する。正直一人で集中したい気持ちがないわけではなかったが、こうも堂々と居座る体勢を取られるとそれも言い出しにくい。この無自覚な図々しさもまた、鵜飼進の魅力のひとつであった。


「そういえば」


 諦めてさっさと自分のレポートに戻ろうとしたところで、進がこちらを見ることもなく話しかけてきた。


「あれからどうなんだよ、及川ゼミは」


「どうって……まあ、普通だけど」


「やっぱり俺の言った通りだっただろ」


「いや別に」


「またまたー。強がるなって」


「強がってないよ」


「お前以外に及川ゼミの奴一人知ってるけど、発表するたびにねちねち突っ込まれてウザいって言ってたぞ」


「ふーん……」


 言われて、数時間前のゼミを振り返ってみる。あの四人のうちの誰かが進の知り合いということか。


 確かに及川教授は発問が多い先生だった。初回から引き続きゼミでは研究テーマに関する発表をしているが、解らない用語や明らかに論理が破綻している記述があると、納得がいくまで生徒に説明を求める。しかしそれは、研究者としての期待の裏返しだ。研究室の門を叩いてくれた者たちへ敬意を払い、教え育み、社会という大空へ羽ばたかせるために己の役割を全うしているのだ。たとえそれが一つの選択肢しか選べなかった腐った卵たちの寄せ集めであろうとも、なんとか孵化させようと必死なのだ。


 以前、ゼミの時間に遅刻した生徒がいた。前の講義が長引いたからだと説明すると、及川教授はお咎めなどしなかった。


 明らかにやっつけ仕事だと解るレジュメを提出した生徒がいた。及川教授は投げ出したりせず、きちんと最初から最後まで読み込んだうえで資料作成の基本から説明を始めた。


 さて、前回鵜飼進と出会った時、彼は拓生になんと言っただろう。彼は覚えているだろうか。覚えているわけがない。彼は気づいているだろうか。気づいているわけがない。


「……ウザい、ね」


「ん? そうそう。嫌な奴なんだろ」


 今のは同意の言葉ではなかったのだが、それを説明したところで進には通じまい。


 数日の時を経て、及川教授が『厳しい先生』から『ウザくて嫌な先生』に成り下がったことは、新道拓生しか知らない幻だ。


「——」


 いつも通り可もなく不可もない六十点のレポートを仕上げ、ふっと息を吐く。進は未だパソコンと睨めっこをしていた。あの薄い端末の中に、鵜飼進がこれまでの大学生活で生み出してきた努力の結晶たちが詰まっているのだ。彼自身の口から成績の話を詳しく聞いたことはない。しかし、流言飛語に踊らされている普段の道化具合を見れば、それらの出来は容易に推察できる。青色に輝くURLと、付け焼き刃の「考えられる」に塗れたレポートの数々を想像するだけで、拓生の心はときめきを止められなかった。


 思わずまじまじと進を見てしまう。すると、彼の様子がいつもと異なっていることに気づいた。


「……そういえば、お前、なんでスーツなの?」


 鵜飼進はスーツ姿であった。第一ボタンとネクタイは外しているが、キャンパス内の服装としては少々違和感がある。というより、いつもの彼は量産型大学生御用達のシャツとスキニーで身を固めていたはずだ。


 進は自分の格好をちらと見て、


「ああ、これ? いや、実はさっきまで面接でさ。帰って着替えるの面倒くさいからそのまま来た。さすがにネクタイは暑いから外したけど」


「面接? バイトでも始めるの? この時期に?」


「始めねぇよ。そもそも俺バイトしてるし……まあ、夏休み遊ぶためにちょっとシフト増やそうとは思ってるけど」


「じゃあなんで?」


「インターンだよ。インターン」


 インターン。その言葉の意味を理解するのに、拓生は幾ばくかの時間を要した。


 インターン。インターン。どこかで聞いたことがある。否、聞いたことがあるどころの話ではない。拓生はそれを知っている。


 知っている、はずだ。


「インターンって、あのインターン?」


「どのインターンだよ」


「インターンシップ? 就活の?」


「ほかに何があるんだよ。おいおい、馬鹿にしてんのか? そりゃあ、お前みたいな天才ならインターンなんて行かなくても楽勝だろうがよぉ」


 戯けた調子で笑う進は、相変わらずキーボードを叩きながら続ける。


「ネットで調べたら、この時期から募集してるところ割とあってさ」


 画面から目を離さず。


「サークルの先輩も動き出しは早い方が良いって言ってたし、勢いで申し込んだら選考通って」


 拓生を見ることなく。


「なんか本選考に影響する場合もあるってネットに書いてあったし、ならやっといた方が得じゃん」


 鵜飼進の口は止まらない。


「まずは自己分析とか業界研究からーとかなんとかも書いてあったけど、俺本読むの嫌いだし……。あれだ、実際に働けば自分の適性とか企業のこととか、リアルに解るだろ? そういうことそういうこと」


 最後の言葉もインターネットの受け売りだろうか。おそらくそうだろう。しかし、拓生にとって重要なのはそこではなかった。


 鵜飼進がインターンシップに参加している。まだそうと決まったわけではないが、そうなるように動いている。たったそれだけの事実が、なんてことないはずの大学生の日常が、拓生の心の表面を粟立たせていく。


 ザワザワと、ザワザワと。蟲が這うように。


「俺たちもう三回生だしなー……って、拓生? どうした?」


「ごめん、ちょっと急用思い出した」


 気づいた時には口に出していた。手早く荷物をまとめて立ち上がる。


 そのまま、拓生は逃げるように講義室を後にした。






 * * * * *






 翌日を迎えても尚、拓生の心は混乱の最中にあった。


 シフト十五分前。いつもの時間にアルバイト先の更衣室で着替えている間も、拓生の脳はひたすら思考の海を漂っていた。


 あれから、拓生もインターネットを使って調べてみた。その結果判明したことは、彼にとって残酷極まりない事実である。


 インターンシップという制度は、申し込んだからといって即参加できるわけではない。通常そこには本番の就職活動と同様、選考なるものが存在する。


 一次審査は、主にエントリーシートによる書類選考。それを通過した者だけが、面接やグループディスカッションに進むことができる。大体はその二つのいずれかが事実上の最終審査になるらしい。それに合格すれば、晴れてインターンシップに参加できるわけだ。


 進は面接を受けてきたと言っていた。すなわちそれは、彼が一次審査を通過していることを意味する。大学三回生の春からエントリーシートを完成させ、提出し、それが企業側に認められたのだ。


 彼はさらに言っていた。自己分析や業界研究も兼ねていると。その言葉が本当なら、業種や業界問わず複数の企業に応募していることは想像に難くない。夏前のこの時期から積極的に門戸を開いている企業に、である。


「——」


 かたや拓生はどうであろうか。


 母親と就活について言葉を交わした日は遥か昔である。あの日から今日まで、拓生は一体何をしてきただろうか。


 ポケットの奥のスマートフォンには、今も自己分析本が眠っている。購入した日以来一度も開いていないのに埃を被ることもない、自分で見ようと思わなければ目にすることもない電子データだ。恐る恐るアプリを起動してみると、既に履歴は漫画本の数々で上書きされていた。


 そもそも、あの時の拓生は何を思ったか。


「——」


 否、考えるべきはそれではない。今考えるべきなのは今のことだ。


 拓生はようやく自覚する。自身を蝕む感情の正体、それは紛れもなく焦燥であると。だって、狡いではないか。拓生は誰よりも自分という奸悪を自覚し、一番の欠格者である事実を理解しているのに、こんなにも灰色の現実を受け入れているのに。自分のことなどまるで解っていない進が、そのくせ能天気に生きている愚か者が、目の前の現実を正しく進んでいるなんて。


 いつもの彼であれば、それらの事実も全てひっくるめてオカズにしてしまえただろう。結局上手くいかない進を想像して冷笑し、そんな自分を卑下し、良くできた頭を愛撫することができただろう。


 しかし、今の彼にはそうできるだけの余裕が残されてはいなかった。彼の心のキャパシティは、既に大きすぎる存在によって隙間なく埋め尽くされている。


「——中村文香」


 結局のところ、行き着く先はそこだった。


 初恋の少女と同じ名前をした女子大生。


 偶然で片付けるには出来すぎていて、運命と呼ぶには矮小すぎる存在。


 新道拓生の気になる人。


 この数週間、拓生は彼女のことを考え続けた。想い続けた。彼女のことを知るために、彼女の好きなものに触れた。ラジオは今や毎夜のルーティーンだ。


 彼女を理解しようと努力した。

 彼女に近づくために頑張った。


 もう少し。もう少しなのだ。


 恋心ではないこの感情に決着がつけば、全てが元通りになるのだ。


「——新道先生?」


 すぐ近くで聞こえた声に、拓生はハッと顔を上げた。


 声の主を見る。文香だった。いつも通り白いブラウスの上から白衣を着用している。胸元のポケットから、お気に入りらしい花柄のボールペンが覗いていた。


「どうしました? さっきから顔色悪いですけど……」


 上目で拓生の顔を覗き込む文香。細い首を傾けた拍子に、茶色みがかった黒髪がはらりと揺れる。


「別に、なんでもないです」


 大きな瞳から逃れるように、拓生は視線を逸らした。慌ててリュックをロッカーに押し込み、更衣室を後にする。


 テキストを用意するために棚へ向かうと、文香も後ろから追いかけてきた。


「そうですか? あまり無理しないでくださいね。さっき咲ちゃんが心配してましたよ。新道先生は最近寝不足なんだって」


「……あれ、冲方さんって授業でしたっけ。僕、今日は別の子だったはずですけど」


「あっ、咲ちゃん今日は自習室に来てるんです。ほら、あそこ」


 言われて見ると、自習室の一角で咲がテスト勉強をしていた。スケジュールが決められたブースとは違い、塾生であれば自由に使用して良い学習スペースだ。自宅だと勉強に集中できない生徒などが、定期テスト前に利用することが多い。


「彼女、優秀ですよね。さっき時間あったのでちょっとだけ勉強見てあげてたんですけど、正直私が教えることなんてないくらい」


 気恥ずかしそうにはにかむ文香。


 その笑顔を見ていたら、自然と言葉が口をついて出た。


「……中村先生も、大分慣れましたよね」


「え?」


「あっ、いや、その……授業じゃないのに勉強見てあげたりとか、すごいなと思って。あっ、あと、生徒のこと名前で呼んだりとか。僕は一年近く担当していても、未だに『冲方さん』ですから」


「ああ、なるほど。確かに言われてみれば……。すごい、よく気がつきますね」


「別に、大したことでは」


 こんなものは気づいた内には入らない。


 そんな拓生の胸中など知る由もなく、文香は咲——否、塾全体をゆっくり見渡して口を開く。


「私、教えるのが好きなんですよ。教育学部入ったのも先生になりたいからですし。ここでバイト始めたのも、その練習になるかなって思ったからなので」


 それから、彼女は陽だまりのような笑顔で。


「だから、私もっと頑張ります。頑張りたいです。これからもよろしくお願いしますね、新道先生!」


「——はい」


 今だと思った。


 彼女に手を伸ばすのなら、このタイミングだった。


「……それはそうと、中村先生」


「はい?」


 キョトンと首を傾げる文香に、拓生はなんでもない風を装って尋ねる。


「好きといえば、この前ほかの生徒から、中村先生はお笑いが好きって聞いたんですけど」


「え? まあ、はい、好きですけど、それが何か……。あっ、もしかして新道先生も好きなんですか、お笑い!」


 唐突な話題に一瞬眉を寄せたと思ったら、文香は合点がいったとばかりに声を高くした。


 拓生は頬を掻きながら頷く。


「ええ、まあ、はい。実は」


「そうなんですか! 私の周り、あまりお笑い好きな人っていないから嬉しいです!」


 知っている。


「私、去年のマンチャン観てからすごいハマってまして!」


 知っている。


「新道先生は好きな芸人さんとかいます? 私はぷれいおんが最近のイチオシなんですけど」


 知っている。


 知っている。知っている。知っている。


 こんなにも、新道拓生は中村文香のことを知っている。


 だから——、


「ぷれいおんといえば、ラジオもいいですよね。僕、実は小学生の頃サッカーやってたので、キックオフ大喜利とか結構笑っちゃいます。中村先生は好きなコーナーとかあります?」


 そして、文香は言った。


 花の咲くような笑顔で。


 この世に悪いものなど存在しないみたいに。


「へぇ。ぷれいおんって、ラジオもやってるんですね!」

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