第2話『昇天』
『諸行無常』という言葉に、拓生は常日頃から違和感を抱いている。
人生というものは押し並べて儚く虚しいものだという解釈自体に異論はないけれども、その論拠は万物が絶え間なく変化していくからではない。むしろ逆だ。変わることがないからこそ、この世は伽藍堂なのだ。
人も、生も、そう易々と変わらない。俗に『成長』と謳われる妄言の本質は、生来の無能を自覚していく過程にある。
「——それでは、今日のゼミはこれで終わります。皆さんがこれからどんな研究をしていくのか、楽しみにしています。お疲れ様でした」
人文学部講義棟二〇一号室。
その日は、進級して初めてとなる及川ゼミの集まりだった。
締めのコメントを発した直後、手早く資料をまとめて、及川教授が講義室を去っていく。途端、部屋中に張り詰めていた緊張という名の糸が、ぷっつりと切れるのを感じた。
「はぁー。終わったー」
ゼミ生の一人が、嘆息しながら机に突っ伏す。目の前に置かれていた紙の束が、くしゃりと音を立てた。
「終わったねぇ」
「お疲れー」
「お疲れ様」
拓生を除くゼミ生四名が、お互いに労いの言葉を口にする。四人分のため息が中空で混ざり合い、部屋中に弛緩した空気が循環し始めた。
「いや、ほんと疲れたわー」
「それな」
「わかる」
「ほんとそれ」
うんうん頷き合うゼミ生たち。
どうやら四人とも、この後に詰まっている予定はないらしい。荷物をまとめる気配もなく、そのままの流れで談笑に花を咲かせ出す。
「ていうか、私めっちゃ緊張したんだけどー」
「私もー」
「それな」
「わかる」
ご覧の通り、咲いた花は大層ご立派な徒花だった。
世の中以上に中身のないやり取りが繰り広げられる傍らで、拓生は一人瞑目する。感じる。自らに眠る悪魔が北叟笑む。雰囲気イケメンの皮を被ったダボハゼが顔を出す。
さあ、退屈な時間は終わった。ここから新道拓生の一人遊びが始まる。
ゆっくり目を開けると、隣の男子二人が言った。
「いやー、まさか初回からこんな発表させられるとは思わなかったわ」
「いやマジそれな」
二人の声を聞きながら、拓生は自分の手元にある紙の束へと視線を落とす。
初回となる今日のゼミは、主に自己紹介と各ゼミ生の発表だった。発表の内容は、現時点で関心がある卒業研究のテーマについて。
テーマ名。
テーマを設定した背景。
考えられる研究方法。
この三項目を簡単にまとめたA4サイズのレジュメ一枚をもとに、自分の興味関心について十五分程度発表する。学究の徒としての自己紹介という側面も兼ね備え、ゼミの初回としては極めて妥当と思われるそれが、この二人にとっては寝耳に水だったらしい。
「あー、それ私も思った」
「あっ、私も! 初回だし、普通に自己紹介だけかなーって思ってたから、マジびっくり」
否、四人だった。
「だよな。俺驚きすぎて、先生から予告のメール来た時、椅子から転げ落ちたもん」
「うわ、アホだこいつ」
四人の輪に爆笑が広がっていった。
再び閉じた瞼の裏で、拓生は幻視する。
自宅のベッドの上でのっそりとスマートフォンを確認し、ただぽつり、「面倒くさい」と心に思った後でそっと画面を閉じたであろう光景が容易に想像できた。別に彼を責めるつもりなど毛頭ない。
年頃の大学生のコミュニケーションなど、虚飾と欺瞞を禁じてしまえば語るに値しないお遊戯会なのだから。五歳児が書いた脚本よりもなお劣悪なリアルおままごとに、いちいち目くじらを立てるほど拓生は狭量な人間ではない。
判で押したような相槌だけで成立してしまう、生産性の欠片もない幼稚園児以下の会話劇。その主題は、次第に及川教授本人へとシフトしていく。
「つーか、多分俺たちだけじゃね? 初日からこんなガッツリやってんの」
「ほんと、さすが及川先生って感じだよね」
「やっぱ厳しいって本当だったんだ」
「マジだって。俺、二年の前期で及川先生の授業とってたけど、余裕でDくらったもん」
「うっそ。じゃあなんでこのゼミ選んだの?」
「え? いや、まあ、それはやりたい研究があったからっつーか……」
「どうせ希望通らなかったんだろ」
「ちげーし! 俺、成績は良いから!」
「さっき落単したって言ってたじゃん」
「だから、それは及川先生だからだって。鬼なんだよ」
「どうだか」
「いやでも、私解るかも。今日だってちょっと雰囲気怖かったし」
「やっぱり? それ私も思ったー。ていうか、めっちゃ詰められたよね」
「あっ、やっぱあれ詰められてたよな!」
「『テーマに関連する本で、最近何か読んだものはありますか?』って、そんなのなくない? だからそれをこれから研究するって言ってるのに」
「それ。『この用語ってどういう意味なんですか?』とか、それを教えるのがあんたの仕事だろ!って感じ」
「『このテーマを設定するに至った具体的なエピソードはありますか?』とかも言われたけどさー、そんなのただ興味があるからってだけだっつの」
「私は普通に聞き方が怖いなぁって思った。なんかずっと真顔だし」
勃起してしまいそうだった。脳内でなんらかの快楽物質がとめどなく分泌されている。拓生は敬虔なる文系学生なので、残念ながら正式名称は知らない。自分で調べるほど勤勉な学生でもなかった。
それにしても、なんと素晴らしい学生たちだろう。数十分前、教授からの質問には通夜中かと錯覚するほど何も言葉を発さなかったのに、今は酒の味を覚えたばかりの飲み会のごとく喚き散らしている。此度の肴はみんな大好き、カラッと揚げた誹謗中傷だ。
及川教授は模範的な先生だった。名目上は指導教員という肩書きながらも、初回からゼミ生たちと対等な立場に立っていた。己の役割に驕ることなく、彼らをいち研究者として扱っていた。同じ研究者として、誠実なる関心を持って接していた。
だからいち早く研究テーマを知りたがったのだ。さらに興味を唆られたら、より深く知るために情報源を欲した。自分が知らない知識が出てきたら、先駆者として教えを乞うた。具体的なエピソードを引き出して、研究の『人』の部分も汲み取ろうとした。
なんて真摯的な先生なのだろう。しかし残念ながら、そんな彼の真剣さが、目の前の腐った卵たちには届かないのだ。
興味は筋違に受け取られ、疑問は怠慢に様変わりし、配慮は無理解に落とし込まれ、勤勉は恐怖に塗り替えられる。
こうして現実は歪められていくのだ。拓生は今、どんな娯楽よりも面白い事象に立ち会っている。
二年もの歳月をかけて幾枚ものレポートを書いてきただろうに、人様の背景には目もくれず、己の不足を棚上げにして異端の烙印を押す。学問を修める者としての生徒を重んじる崇高な教員は、彼らの脳内で勝手に傍若無人で残忍酷薄な中年男性へと調理される。惚れ惚れするような三分クッキングだった。
どんなに歪んでいても、彼らにとってはそれが真実なのだから仕方がない。鵜飼進が言っていたではないか。及川教授は厳しい鬼なのだと。そして彼らは目にした。実際の研究者の姿を。その認知的不協和を解消するためには、事実の方を捻じ曲げるしかない。それしか自分の正しさを守る術を持たないのだ、嘆かわしいことに。
喜べ鵜飼。この世界は本当にだだっ広く、下には下がいる。最下層の人間からのお墨付きだった。
こんな奴らのために、貴重な自分の研究時間を割いてまで、あの教授はこれからゼミを開講しなければならないのだ。一週間の楽しみが一つ増えてしまった。拓生はゼミ生全員と初対面だったが、これから仲良くやっていけそうな気がする。
隣の男子が言った。
「なぁ。新道君は、及川先生のことどう思う?」
拓生は心からの笑顔で答えた。
「——別に、どうも思わないかな」
* * * * *
階下から玄関ドアが開く音が聞こえた。しばらくして、階段を登ってくる足音。聞き慣れたそれは、だんだんとこちらに近づいてくる。反射的に目を向けると、足音は再びドアが開かれる音とともに、隣の部屋へと吸い込まれていった。
どうやら千明が帰ってきたらしい。机の上の時計を見ると、十九時を回っていた。
高校三年生になり部活を引退した千明は、ここ最近はこのくらい早い時間に帰宅する。必然、講義とアルバイト以外の時間は自宅に寄生している拓生もいるわけなのだが、二人が鉢合わせることはまずない。
拓生も千明も、帰宅した後は自室に籠りきりになるからだ。先日のように母親が休みの日はともに食卓を囲うこともあるが、基本的に二人が自宅内で顔を合わせることはない。夕食も各自で勝手に済ませてしまう。
「ただいま」も「おかえり」も、新道兄妹が紡いできた想い出のアルバムからはいつのまにか消え失せた。ここにいるのは二人ではなく、一人と一人。拓生にとって千明とは、もはや血の繋がりしかない赤の他人だった。
そんな他人のことなどどうでもいい。今、拓生が考えなければならないことは別にある。
「……うーん」
ベッドの上に寝そべりながら、手元のスマートフォンを弄ぶ。開かれているのは電子書籍のアプリだ。
小さな画面に映し出されている本、そのタイトルは『一週間で完成! 誰でもできる自己分析』。所謂、就活本であった。
大学に入学して三年目。先日の母親との会話ではないが、そろそろ進路のことを考えなければならない。就職か進学か。就職するなら、民間企業か公務員か。無限に広がる選択肢の中から、ひとつを選ばなければならない。
試しに就活についてインターネットで検索してみると、どうやらインターンシップの申込や本格的な採用活動に取り掛かる前に、自己分析——自分の強みや弱み、長所や短所を把握し、適切な業種や職種を研究する必要があるらしい。自分について深く知ることで自己PRや志望動機の説得力が増し、エントリーシート選考も通過しやすくなるそうだ。
添付されていたリンクから電子書籍の販売サイトへ飛ぶと、そのためのツール本がごまんと販売されていた。試しにサイト内で最も評価が高かった本を購入してみた。それが先のタイトルである。
「——」
何とはなしに目次のページを眺める拓生。タイトルの通り、本はあわせて七章で構成されている。一日一章ずつ順に読み進めていけば、一週間で自己分析が完了する仕組みらしい。
二十一年の人生を、たった一週間で振り返る。馬鹿にされているように感じる向きもあるだろうが、拓生のような人間にはお誂え向きだった。
各章の見出しへと目を走らせる。
第一章『働く意味を考える』
第二章『過去の自分を深掘りする』
第三章『現在の自分を深掘りする』
第四章『自分の性格・価値観を考える』
第五章『やりたい仕事を考える』
第六章『向いている仕事を考える』
第七章『将来のライフプランを考える』
思わず吹き出しそうになってしまった。言うに事欠いて『考える』とは。新道拓生の専売特許ではないか。
拓生は常日頃から考えている。両親の頼りなさを、妹の未成熟さを、友人や同回生の浅ましさを、生徒の哀れさを、考えすぎるほどに考えている。
しかしそれ以上に、拓生が最も思考のリソースを費やしているのは、ほかでもない自分自身のことだ。言わば、毎日が自己分析の連続なのだ。
世に蔓延る阿爺下頷。彼らの間違いを目にするたびに、拓生は自覚している。彼らを嘲り、愛し、心底で愉しんでいる自分が一番の愚者であることを。この世で最も程度が低く、最も悪名高い存在が新道拓生であることを。
ただし、それだけではない。さらに拓生は知っているのだ。そんなどうしようもない化け物じみた自意識を、自分はこの上なく愛してしまっているのだと。
他者を見下している自分を蔑み、蔑んでいる自分を自覚し、自覚している自分を愛する。気色の悪い自己愛のウロボロスが、拓生のイカれた自慰行為の正体である。こんな幼稚園児の糞便以下の劣等生にやりたい仕事や向いている仕事などあるはずもなく、ましてや将来のライフプランなど描けるわけがなかった。
以上、本日の自己分析は終了した。胡散臭いハウツー本などなくとも、屑のことは屑が一番良く解っている。至極当然の結果だった。貴重な千五百円をドブに捨ててしまったが、少しだけ気持ちよくなれたので及第点としよう。
満たされた気分のまま拓生は就活本を閉じ、その隣に表示されている、ピンク色に輝く漫画本へと指を滑らせるのだった。
* * * * *
それは、ある日のアルバイトのことだった。
拓生がいつものようにシフト十五分前に出勤すると、デスクの前で塾長と見知らぬ女子が立ち話をしていた。
新規の生徒かと思ったが、ブラウスの上から講師専用の白衣を身につけている。新しく採用したアルバイトだろうか。そういえば、精力的にシフトに入ってくれていた先輩が就職を機に辞めるため、穴埋めで新しい人を採るかもと言っていたような気がする。
四月も後半に差し掛かっている。採用活動としては動き出しが遅い気もするが、運営側には色々と事情があるのだろう。いちアルバイト学生の知るところではない。
リュックを置いて更衣室に入り、拓生も私服のシャツの上から同じ白衣を羽織った。そのまま今日の授業の準備を始める。塾長用のデスクの後ろに設置された棚から担当生徒の情報がまとめられたファイルを抜き取り、その隣の棚から数学のテキストを取り出した。今日は愛しの咲ではなく、別の中学二年生の男子を教えることになっている。
普段は高校生をメインに教えている拓生だが、シフトの都合で、こうして別の学年を受け持つこともままある。中途半端に成熟した不安定な自意識を眺められるため高校生を好んでいるだけで、別に拓生は中学生以下を毛嫌いしているわけではない。
特に中学生は扱いが楽だからありがたい。適当に自尊心を煽っていれば、調子に乗って勝手に勉強してくれる。座っているだけでこちらのお金になるので、むしろ拓生は高校生とは異なる意味で重宝しているくらいだった。
「新道先生、ちょっといいかな」
ファイルとテキストを片手に割り当てられた学習ブースへ入ろうとしたところで、塾長から声が掛かった。
「あっ、はい」
個人情報を置きっぱなしにしているわけにはいかないので、荷物を持ったままデスクに向かう。授業開始まではまだ十分くらい余裕があった。
「なんですか?」
拓生より頭ひとつ分くらい背が低い塾長は、薄めの化粧が施された顔でこちらを見上げる。いつも通り度が強そうな銀縁の眼鏡を掛け、長い黒髪を後ろで一本にまとめた姿は、学習塾を束ねる女性の長として様になっていた。
聡明な印象に違わず、この一年で教育者としての能力も高いことは重々把握している。生徒の特性に合わせて最良の講師を斡旋し、時には自ら的確なアドバイスを施して回っている。このあたりの有名な高校や大学への進学実績も申し分ない。生徒や保護者からの信頼も厚かった。
そんな塾長だが、対照的に講師陣とコミュニケーションをとる機会はあまりない。無論、授業中の生徒の様子や成績など、運営上必要となる報連相は欠かさないが、それ以外の要件で呼び出されることは極めて稀だった。
現在受け持っている生徒に問題が発生した記憶もなく、直近で話し合わなければならないことに心当たりはない。訝しみながらも拓生が視線で会話を促すと、塾長は、先ほどまで話し込んでいた隣の女子を手で示した。
「紹介するね。こちら、今日から入ってもらう中村先生。中村先生、こちらが新道先生ね」
言われて女子の方を見遣ると、彼女は塾長よりもさらに低い位置にある頭を深々と下げた。
「初めまして。今日から新しく入ります、中村文香です。よろしくお願いします!」
——中村文香。
告げられた彼女の名に、一瞬だが拓生の思考が止まった。
中村文香。なかむらふみか。なんだろう、何かが引っ掛かる。しかし、その正体が掴めない。
「……なかむら、ふみか」
「……? はい。よろしくお願いします」
馬鹿みたいに鸚鵡返しをする拓生に、顔を上げた文香は怪訝そうにしながらも笑顔を返した。
「新道先生? 大丈夫?」
塾長がこちらを覗き込む。眼鏡の奥の瞳を見て、自分が眉間に皺を寄せていることに気づいた。
「大丈夫です。あっ、えっと、新道拓生です。よろしくお願いします」
気を取り直して、拓生も挨拶を返す。依然として違和感の正体は解らないままだが、人前でいつまでも呆けているわけにはいかない。
「彼女、新道先生と同じ大学なんだって」
「あっ、そうなんですか?」
「はい。今年入学しました。教育学部です」
「へぇ。あっ、僕は人文学部で」
「塾長から聞いてます。優秀な方だって」
優秀な方。その言葉に、拓生は何故自分がこの場に呼ばれたのか、大凡の見当がついた。
「……それで塾長、僕に何か要件が?」
「ああ、うん。そのことなんだけど、新道先生にひとつお願いがあって」
案の定、新人を紹介するためだけに呼び止められたわけではなかった。
「お願い?」
「そう。今日なんだけど、中村先生に、新道先生の授業を見学させてあげて欲しいの」
「僕の授業を?」
「うん。新道先生の授業は解りやすいって生徒からも評判だし、モデルにするにはもってこいだと思って」
「はあ。それは、ありがとうございます」
なんとも光栄な評価だった。ただテキストに書いてある内容をそのままアウトプットしているだけなのに。すなわちそれは、担当している生徒が「一足す一は二」と素直に受け取れるだけの高い理解力を有していることを示しているだけなのに。
数多くの実績を誇る教育者であっても、新道拓生の本質には気づけないのか。目の前の女性に失望すると同時に、自らの外面の鉄壁さを再認識する拓生であった。
「解りました。僕の授業で役に立てるなら」
「ありがとう。ごめんね、急なお願いで。あっ、塾のこととか、基本的な授業の進め方とかはひと通りガイダンスで教えているから大丈夫」
「承知しました」
「じゃあ中村先生、あとは新道先生について行って」
「はい!」
文香の景気が良い返事を最後に、その場はお開きとなった。塾長は来塾してきた生徒たちのお迎えに向かい、後には拓生と文香の二人だけが残される。
「じゃあ、僕たちも行きましょうか」
「はい、よろしくお願いします」
文香を引き連れて、拓生は再度学習ブースへと向かう。既に来塾していた担当の生徒と軽い挨拶を交わし、簡単に文香を紹介する。授業見学の旨を説明すると若干戸惑いの表情を見せたが、見られるのはあくまで自分だと伝えると素直に納得してくれた。やはり中学生は扱いやすくて助かる。
授業開始までまだ少しばかり時間があるので、簡単に準備の仕方を文香に説明する。拓生の言葉ひとつひとつを聞き漏らさないよう、熱心にメモをとる文香。そんな彼女の姿を虚ろに眺めていた——その刹那。
突然、拓生の脳裏にとある情景が蘇った。
——教室。黒板。椅子。女の子。背中。白。
浮き上がった、二本の線。
なかむらふみか。
先ほどから脳味噌の奥にこびりついていた違和感、正体を掴めずにいた奇妙な感慨が徐々に形を持ち始める。朧げだったそれは次第に輪郭を露わにし、頭の中で点と点が線で繋がっていく。
そうだ。思い出した。
拓生にしては珍しく、その言葉は脳を経由することなく、気がついた時には口から発されていた。
「……ふみちゃん」
* * * * *
「新道先生?」
突然押し黙った拓生を怪訝に思い、文香はメモ帳から顔を上げた。
「どうかしましたか?」
「え? ……あっ、いや、なんでもないです」
慌てて笑顔を取り繕う拓生に形の良い眉を寄せながらも、文香は気を取り直したようにメモ書きを再開した。どうやら先の呟きは聞かれなかったらしい。
ほっと安堵したのも束の間、ちょうどそのタイミングで、塾全体に聴き慣れたチャイムの音が鳴り響く。授業開始の合図だ。
「それじゃあ、授業始めていこうか。えっと、中村先生は……」
意識して苗字を強調して呼ぶと、文香はパタパタと両手を振って、
「あっ、私は端っこの方で見てるので大丈夫です! 気にせず授業してください!」
そう言って、本当にブースの端の方まで移動し、直立不動の態勢をとり出した。正直、狭いブース内でずっと立っていられるとこちらも落ち着かない。折を見て手近な椅子を勧めよう。
「じゃあ、この前やった分配法則のおさらいから……」
生徒に該当のページを開くよう指示を出し、手元に置いた講師用のテキストを確認する。一週間前に担当した時の記憶を掘り起こしながら、テキストに書かれた数式をそのまま板書していく。
生徒と文香。二人分の視線を背中に感じつつも、拓生の意識はこことは別のところにあった。
——ふみちゃん。
初恋だった、と思う。
幼稚園の先生が好きだったとか、そういう次元の話ではなく、明確に、意識的に、「僕はこの子のことが好きなのだ」と、「僕はこの子に恋をしているのだ」と、自覚したのはこの時が生まれて初めてだった。
小学生の頃である。
拓生は、前の席に座る中村文香という女の子に恋をしていた。
一目惚れだったと記憶している。今の今まですっかり忘れていたのに、一度思い出した途端、まるで写真記憶のように、脳裏に鮮明に蘇ってくる光景があった。
胸である。
彼女は同学年の他の女子と比べて発育が良かった。否、より正確に言い換えれば、同学年の他の女子と比べて胸の膨らみ具合が大きかった。
有り体に言えば、中村文香は、小学生にしては群を抜いた巨乳の持ち主だった。
衝撃だった。果たしてこれは現実なのかと疑った。
今でこそ生産性の欠片もない生活を謳歌している新道拓生だが、彼には人生の絶頂期と呼ぶに相応しい時期があった。それがこの時期だ。
人より多少勉強ができた。人より多少運動ができた。人より多少友達が多かった。人より多少褒められることが多かった。
そんな自分に無いものを、中村文香はその身体に二つも持っている。生物学上当然とも言えるその事実が、しかし当時の拓生にとってはひどく屈辱的に映った。
屈辱的であると同時に、魅力的でもあった。
なんなのだろう、あの丸い膨らみは。
一体、あのTシャツの下に何が隠されているのだろう。
のちの保健の授業で、第二次性徴期を迎えた女子はひとりでに乳房が膨らんでいく道理を知る。大人への第一歩と称されたそれは、拓生にとっては人類の神秘と呼んで差し支えなかった。
自らが感じたその素晴らしさを、しかし新道少年は誰にも話しはしなかった。たくさんいた友達にも、両親にも、決して話さなかった。無意識だった。無意識のうちに、それを吹聴して回るのは常識的に良くない行いであると直感していた。拓生は良い子だったから、良くない行いは周囲に決してバレてはいけないのだと理解していた。理解していたから、自分の中だけに仕舞い込んだ。
仕舞い込んで、一人で愉しんでいた。
気がつけば夢中になっていた。
夢中で彼女を目で追っていた。
精通したのもこの頃だった。彼女を想ってする手淫は、ほかの何物にも変え難い快楽だった。恥ずかしがり屋の亀さんから発射された少量の白い液体は、彼女への純白な恋心を表しているように思えた。あの豊かに実った双丘の尊さには到底及ばないが、同じように膨らむ自らの股間が誇らしくもあった。
今にして思えば、これが今の救いようのない新道拓生の原体験だったのかもしれない。
やがて、拓生は成長した。
中学生の頃に両親に買ってもらったスマートフォン。購入したその日に接続したインターネットには、見たことのない世界が際限なく広がっていた。
同時に、拓生は知ってしまった。
自分があれだけ恋焦がれた二つの膨らみの持ち主は、この世にごまんと存在していることを。中村文香が特別な存在ではないということを。
『井の中の蛙』という言葉を。
知ってしまったのだ。
その瞬間、拓生の中で価値あるものは無くなった。
豊かな膨らみはただの肉塊にしか思えなくなった。中学を卒業して彼女とは離れ離れになり、月日が経ち、密かに育て続けていた恋心の芽はいつのまにか摘み取られ、雑草とともにゴミ袋に捨てられた。
こうして、新道拓生の初恋は誰にも知られることなく、勝手に始まり、勝手に終了した。
以来、拓生の世界から中村文香は消え失せた——はずだったのに。
「——」
生徒に練習問題を解かせている間、拓生は文香の方ばかりを見つめていた。
文香は変わらず立ちっぱなしのまま、拓生の授業の進め方から生徒への言葉遣いに至るまで、丹念にメモをとっている。顔を上げた拍子に目が合うと、ニコッと人好きのする笑顔を向けられた。
その屈託のない笑顔に、胸の奥の嫌なところがざわめき出す。
「……あの、中村先生。よければ、椅子どうぞ。ずっと立ってるのもしんどいでしょう」
誰も使用していない学習机から椅子を拝借し、文香の前に勧める。文香は当初遠慮していたものの、「僕が落ち着かないので」と伝えると、「ありがとうございます」と言って素直に座ってくれた。
生徒が練習問題を解き終わり、採点を完了させる。再びホワイトボードに向かいながら、拓生は思案する。
これはノイズだ。あってはならない。
拓生にとって他者の存在とは自分を慰めるための手段であり、道具であり、生贄なのだ。ただ自分が気持ちよくなるためだけのオカズなのだ。あくまで中心にいるのは新道拓生であり、その他大勢は彼の醜悪さを引き立てるための脇役にすぎない。
そんなモブキャラに心を奪われることなど、この類稀なる自意識が許しはしない——そのはずなのに。
新道拓生、二十一歳。
順風満帆に歪み続けてきた彼だけの日常は、この日を境に、狂乱の渦へ飲み込まれていくこととなる。